夢と現実いったりきたり

(感想ドラフト)舞台「Being at home with Claude -クロードと一緒に-」2023

@横浜赤レンガ倉庫

 

 

STORY

1967年 カナダ・モントリオール。判事の執務室。

殺人事件の自首をしてきた「彼」は、苛立ちながら刑事の質問に、面倒くさそうに答えている。
男娼を生業としている少年=「彼」に対し、明らかに軽蔑した態度で取調べを行う刑事。部屋の外には大勢のマスコミ。

被害者は、少年と肉体関係があった大学生。

インテリと思われる被害者が、なぜ、こんな安っぽい男娼を家に出入りさせていたか判らない、などと口汚く罵る刑事は、取調べ時間の長さに対して、十分な調書を作れていない状況に苛立ちを隠せずにいる。

殺害後の足取りの確認に始まり、どのように二人が出会ったか、どのように被害者の部屋を訪れていたのか、不貞腐れた言動でいながらも包み隠さず告白していた「彼」が、言葉を濁すのが、殺害の動機。

順調だったという二人の関係を、なぜ「彼」は殺害という形でENDにしたのか。

密室を舞台に、「彼」と刑事の濃厚な会話から紡ぎ出される「真実」とは。

 

感想

2019以来の横浜赤レンガ倉庫での公演、そして松田イーヴのカムバック! あの夏わたし(や、まわりのひとたち)の心に爪痕を残していった松田イーヴにまた会えるのか……? という期待と、あまりにあのときのイーヴに恋をしているせいで、幻影を追ってしまっていたのではないか……? という不安が入り混じる中の観劇。2019とは全然違うのに、やっぱり松田イーヴのことは愛おしいという。もう1回観る予定だけど、Twitterの挙動がいまいち怪しいせいで感想を遡りづらそうなので、さっさとブログに書いてしまうことにする。というわけでいつもよりもさらに推敲しません。

 

セットについて。(記憶違いかもしれないけれど)もっと可変で概念としての《判事の部屋》だった2019、もっとがっつりセットを組んでいた2021、の中間くらいのセットだった。長机と入口のドアがしっかり据えつけてあって、舞台上で動かすのは椅子くらい。それも、いわゆる演劇的な意味で動かすわけではなくて、登場人物が実際に動かすだけなので、可変ではない。ただし、ステージのまわりに小道具が置いてあって、それを使うことはあった。覚えているのは、警護官がワインを飲んでいたり、イーヴが文庫本をとって読んだりしていたことくらいかな。2019は舞台がイーヴの心象風景として、2021は《現実の部屋》として展開していった印象を抱いていて、2023は(脚本や演出も含めて)どちらかというと《現実》寄りに感じた。今年のクロードも好きだったから不満というほどではないけれど、せっかくこの特殊な構造のハコでやるんだから《概念》寄りの方がはまりそうなのに……とは思った。

 

ラストは2021と同じく、イーヴが部屋の外に出ていって幕、というパターン。ただし、イーヴが去ったあとの刑事の芝居はなしでそのままカテコに入るのが2021と違うところ。この演目に関してはカテコはいらないかなあと思うけど、イーヴが出ていってしまうパターンならあってもいいのかな。2019の終わり方であれば絶対にいらない。

前回・前々回ともに一度しか観ていないので細かい脚本の違いは正直わからないのだけれど、イーヴの独白の終わりの台詞──そして2019の幕切れの台詞でもある「もうやめるよ」が「諦めるよ」に変わっていたのははっきりわかった。他に印象的な台詞たち、「僕たちはパンケーキみたいにひっくり返った」「くさっちゃう」「ミルクシェイクみたいに」は健在。あとは、刑事が「イーヴ」じゃなくて「イヴ」と呼んでいるように聞こえたかな。そもそも公式的には「イーヴ」ではなく「イーブ」という話もあるけれど、とりあえずわたしは「イーヴ」で通そうと思う。

イーヴの姉の話は覚えていたけれど、両親の話は全然覚えていなかった。速記官と刑事の会話があれだけ長かったかも覚えてないな……。井澤くんは速記官にするにはスタァすぎるのではないかという気がした。それが悪いとか、これまでの演者がどうとかの話ではなく。

演出は「ここが違った」というのをあげていけるような細かい違いではなく、全体的に変わっていた……はず。わたしたち観客はこの物語に「いない」な、と思ったのが(2019版と)一番違うところかなと思う。

 

初見時から4年経っていて、その間の自分の人間としての成長(微々たるものであれ)や、すでに何度か観て/知っている物語ということを差っ引いても、今回の演出・脚本は物語をかなりわかりやすくしていたのではないかと思う。4年も経っていれば当たり前に記憶は褪せていくので、どこまでどんなふうに変えているのか/いないのか確信はないけれども……。2021のときに「クロードって明確に社会構造についての話だったんだな」としみじみと驚いたのだけれど、そこがきっちりと伝わってくるというか。物語の起点である「なぜクロードがあの日に死んだ(殺された)のか?」という疑問の根っこにかかわる話だから、ここが伝わってくるかどうかってすごい大事なんだよな……。やっぱり、(イーヴの心象風景ではなく)現実の部屋が舞台となっていて、そして刑事たちの存在があるからこそ、その後ろにある社会構造がはっきり見えてくるのかなと思う。

 

2019のときは、序盤はイーヴに対してもイライラする気持ちをどこかに持っていたと記憶しているのだけど、今回はそれがまったくなくて、ずっとイーヴに寄りそう気持ちで観ていた。だからむしろ、刑事の言うことがずっとずれていると感じて、そこに対してのいらだちがあった。イーヴと刑事の相互不理解はお互いの言語化の方法が違うからだと思っていたけれど、刑事側がイーヴ──男娼であるイーヴを尊重していない、蔑視している、というのが最大の原因なのだということがわかった。イーヴと刑事に同等の責任があると思っていた自分の浅はかさや傲慢さがあまりに恥ずかしいが、初見時は社会構造の話であることを知らないままに観ていた……という言い訳をさせてほしい。

刑事から「(イーヴがクロードを殺す)動機がない」と言われたときのイーヴの反応が本当につらかった。クロードのような立派な人間と《イーヴのような》人間の人生が交差することなんてありえない、と言われたということだから……。冒頭からずっと刑事との相互不理解が続くけれど、あの場面で刑事に対しての諦めが決定づけられたのかな、と思う。その後、イーヴの独白に対して聞くふりをして一蹴するところで完全に決裂した印象。あんたにはきっとわからないだろう、という諦め。

 

観終わったあとに「イーヴを抱きしめてあげなくちゃ」という気持ちになるのがクロードの定番だと思っていたのだけど、今年のイーヴにはそうは思わなかった。それは決してイーヴが愛おしく感じられなかったからではなくて、「わたしたちが抱きしめてあげなくても大丈夫だ」と瞬発的に思った……のだけど、本当にそうなのだろうか? 「諦めるよ」という台詞が頭に残ってぐるぐるしている。2019のときは客席に刃を向けるように「お前らにはわからない」と拒絶していて、2021のときはきっと最後までわかってもらいたがっていた。今年は明確な敵意ではなかったけれど、そしてそれは客席に向けられてはいなかったけれど、「諦めるよ」か……。刑事たちに向けた、だらりとした諦念だったのではないか? 今回は遠めの席で、最後退場していくイーヴの表情がどういう表情なのか判別がつかなかったのが惜しい。次観るときはもう少し近めで表情を見られるはずなので、もうちょっと考えます。

 

イーヴがステージから降りてまた駆け上がってくる、というところで転んでいたのでひやっとした。カロリーも気力も使う芝居だと思うけれど、怪我のないようにだけ気をつけてほしい。