夢と現実いったりきたり

再考・舞台「Being at home with Claude-クロードと一緒に-」2023

 2023年版初見時感情の赴くままに書いた感想はこちら。

 もう一度観て、衝動的な感想やメモ書きはアウトプットしたので、もう少し冷静になってこの作品のことを考えてみようと思う。

 

 この戯曲を、日本人が一度観ただけで隅々まで理解するのは(よっぽど1960年代のモントリオールの風景を身にしみて知っている人でなければ)正直言って不可能であると思う。イーヴと刑事が絶え間なく飛び交わす膨大な台詞には次々に固有名詞が登場し(しかもひとつひとつに文脈があり)、言外にもモントリオールという都市の複雑な背景が織り込まれている。テキストでじっくり時間をかけて読んだとしても、確実になにかを取りこぼすだろう。わたしもまだまだわからないことだらけだ。ただでさえ、耳で聞いて、そのまま覚えたり考えたりすることがすごく苦手なんだから。言葉を聞いても、少しでも気を抜くとただの音として処理されてしまう。聞いた言葉を一度書いて、目で見て、ようやく考えることができるのだ。つくづく演劇というメディア向きでない処理の仕方だなと思う。

 

 だからまずとっかかりになるのは、イーヴに対する刑事の差別的なまなざしとそれによる相互不理解が繰り広げられる前半、イーヴとクロードの愛の物語が綴られつつ前半のまなざしを塗り替えてゆく後半(終盤?)という、時代や地域を置き換えてもある程度成立する物語なのだと思う。もちろん、すべての根幹にはモントリオールの歴史が深くかかわっている(と思われる)のだが、細かい固有名詞や背景を見落としたとしても、この物語の輪郭を掴むことはできる。そしてその次の段階、「なぜ」を考えようとしたとき、圧倒的な知識不足の壁にぶつかるのである。付け焼き刃ながらも、調べたことをもとに『クロード』を考えてみたい。

 

 クロードがイーヴに読んでくれたポール・クローデルは、「自由ケベック万歳(Viva le Québec libre)」を叫んだシャルル・ド・ゴールと親交があったという。今回の演出では小道具がステージまわりに置いてあったから、どの作品を読んでいたのか帰りに確認しておけばよかった。イーヴにとってはクロードが読んでくれることこそが重要で、それがキャロットケーキのレシピだとしてもよかったのだから、作品名はたいして重要な情報ではないのだが、クロードのことを知る手がかりにはなったかもしれないなと(まあ戯曲内で明かされていないのであればあくまで今回の演出家によるいち解釈にすぎないが……)。

 「自由ケベック万歳」が叫ばれたのは、まさに『クロード』の劇中で開催されているモントリオール万国博覧会の最中である。劇中時間の7月5日からほどない7月24日*1におこなわれたド・ゴールの演説は、ケベック独立運動に大きな影響を及ぼしたという。

▲当時の映像

 

▲直接的には関係ないが当時万博を観に行った人の記録

 

 そもそもケベックにおける1960年代というのは、「静かな革命」による〈ケベック人としての自覚・主体性〉の目覚め、独立運動の隆盛……と、目まぐるしく変化した時代だったらしい。クロードが仲間たちと独立運動に参加していた、という言及からすると、クロードはいわゆる「ケベコワ」と呼ばれるようなフランス系カナダ人だったのだろうと推測できる。

これらの格差を是正する運動が起こり、それは次第に「静かな革命」(La Révolution Tranquille)と呼ばれた。そのきっかけは1960年におけるデュプレシ政権からルサージュ(Jean Lesage)政権への交代である。ルサージュ政権はカトリック教会が中心となって行っていた教育の分野を非宗教化し、フランス語話者の社会的自立を目指す政策を行った。その一つとして1967年には「CEGEP」(Collège d'enseignement général et professionnel) というフランス語話者の教育水準を高めるための教育機関が作られた。しかし、この時代の移民は英語を習得する傾向にあり、移民の子供の学校教育における言語選択も問題となった。その中でも有名なのは1968年に起きた「サン・レオナール事件」(Crise à Saint-Léonard)である。英語系学校に進学を希望していたイタリア人移民の子供に対し、カトリック学校教育委員会) はフランス語系学校への入学を強制したことが発端である。これに対して子供を英語系学校に通わせることを希望していた住民が反発した。そのためジャン゠ジャック・ベルトラン (Jean-Jacques Bertrand) が党首であるユニオン・ナシオナル(Union Nationale) 政権は親が教授言語の選択権を認める一方、英語系学校におけるフランス語教育を義務づけ、フランス語が労働言語や公共掲示における優先言語と定めた「フランス語推進法」(63号法)を1969年に制定した。これに対してフランス語系住民はフランス系社会を弱体化させるとして反発し、約5万人の抗議デモを起こした。そして最終的にはユニオン・ナシオナルは解体することとなったのである。教育の分野に限定されていたこの革命は、次第に「フランス系カナダ人」から「ケベコワ」(Québécois)になろうという運動へと繋がった。すなわち、イギリス系カナダ人から“主権”をとり、「我が家の主人(Maître chez nous)」となるためのものであると伊藤(1984:146)は述べている。

https://dokkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2399&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

 1960年代のカナダにはソドミー法が存在しており、同性愛は罰せられていた(男性同性愛者を「犯罪的性的精神病質者」「危険な性的違反者」とみなし、無期限の実刑判決が科された)。また、ケベックではカトリック信仰が強く、かなり保守的な──家庭を持ち、たくさんのこどもを持つことが奨励される社会であった。

 

フランス系カナダ人にとっては、教育や社会保障をフランス系カナダの諸制度、特に教会に委ね続ける方がより安全に思われた。彼らにとっては、長い間英語系の金融・商業・産業界によってコントロールされてきた政府は疑わしい存在でしかなかった。一方教会は、十九世紀半ばのケベックにおける教皇至上権の確立によって強化され、国家中の国家となり、政府の諸機関にごくわずかの余地しか残さなかった。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/38/1/38_1_26/_pdf/-char/ja

 

フランス系カナダにおける出生率の低下は、1960年代以降に急速に進んだ世俗化の反映である。フランス系カナダではカトリック信仰がフランス語と並ぶアイデンティティの核であり、多くの子どもをもつことが奨励されたので、かつては10人以上の子どもをもつ家庭も少なくなかった。しかし、1960年代に入ってケベック州では「静かな革命」とよばれる政治・経済・社会の大改革が進められ、その過程でそれまで強い権威を維持してきたカトリック教会の影響力が著しく低下し、それにともなって出生率も急激に低下した。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ejgeo/12/1/12_12/_pdf/-char/ja

 

 イーヴが話す、「客の男たちが行為後に態度を急変させてひどい仕打ちをしてくる」というエピソードには、こうした社会背景が反映されていると思われる。クロードにもガールフレンドがいたように、妻子のいるゲイ男性というのは珍しくなく、社会的地位を持てばこそ(持つために?)、カムフラージュの必要があったのだろう。クロードのガールフレンドは「わたしのボーイフレンドは同性愛者なんかじゃない!」と取り乱したそうだが、それが当時の「一般的な」反応だったのだろう。

 

 イーヴを取り巻く偏見は、性的指向や職業だけでなく、人種的な偏見も含まれるのではないかと思う。ケベック州はフランス系カナダ人の人口が多いものの、社会の中心にいたのは英語系の人々だった(英語が話せないと昇進ができない)という。イーヴが教育について言及する場面があるが、英語系の学校とフランス語系の学校では資金力の差があったこと、また、英語教育を受けられるのは英語圏出身者のみであり、非英語圏出身者はフランス語教育しか受けられなかったということが指摘されており、構造的な差別があったといえるだろう。

 

1940年代には、都市化の進む一方で,人々の価値観は古いままであった。病院や教育は教会の支配下のままであり,多くの人々は,小学校を終えると,すぐ仕事についた。技術者や経営者になる

フランス系カナダ人は,ほとんどいなかった。

https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8214868_po_yu-m.pdf?contentNo=1&alternativeNo=

 

フランス語話者の多いカナダ・イーストやケベック州では、フランス革命を思み嫌ったカトリック教会が「アンシャン・レジーム」(Ancien regime)を築き、その結果フランス系住民の世俗化や工業化を拒んだ。そのような時にイギリス系住民やアメリカ合衆国の実業家が経済の主権を握っていたために英語が優勢言語であった。そのため、フランス語話者は昇進を目指すのであれば経営者の言語である英語を習得する必要があった。またモントリオールの商業用看板や広告、そして接客は英語であった。そしてフランス語話者は木材や鉄の採掘などの第一次産業に従事し、「Petit painのために生まれた人々」(Lesfrancophones sont nes pour un petit pain) とまで呼ばれた。その要因は上記で述べた通りアンシャン・レジームや政治だと言われている。しかし、教育において英語が優勢言語であり続けたことも要因であろう。この時代においても英語系大学と同様にフランス語系大学も先進的な教育を行なっていた。両言語の大学も政府から補助金を受けていたが、英語話者は前述のように経済界において高い地位におり、英語系大学はフランス語系大学に比べてより多くの寄付金を受けた。その結果としてフランス語系大学と英語系大学では資金面において差があった。

 

https://dokkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2399&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

ケベックのフランス系の人々は、カトリック教会支配の教育システムのせいで、産業化社会に対応した教育を受けることもなかった。

それゆえに、外国資本の企業で管理職に就く割合は低く、未熟練労働者として就業することが多かった。地方から都会に出てくる農家の子弟などはさらに教育程度も低く、未熟練労働者になり、その父祖よりも社会的な地位は低くなった。そのころから、ケベックでも都市部に住む移民が増加しつつあったが、生活や経済活動に有利な英系の生活様式を取り入れ、英系に同化することによって、フランス系の人にくらべると高い地位を得るようになった。

教育に関しては、宗派別委員会、つまり教会にまかせきりで、教育行政のために政府内に大臣職を設置しなかった。よって、ケベックカトリックのフランス系カナダ人の受ける教育内容は、カトリックの教義に反しない、カトリック信徒を養成するのに適したもので、決して産業化社会に対応してなかった。また、教育費は、1943年に義務教育が制度化され、翌44年には義務教育の無償が制度化されるまでは、有料だった。高等教育も、フランス系カトリックケベックの住民にとって広く門戸が開かれていたわけではない。

一部のエリートに古典教育を施していた。教師も聖職者であることが多く、1950年には公立学校で半分の教員が、私立のコレージュでは90パーセントの教員が、聖職者だった。ケベックのフランス系の人々の教育は、宗派別委員会に教育行政や教える内容をまかせ、聖職者が教師になるなど、カトリックに深く影響されていた。そしてケベックの産業化社会に適応できない若者をつくり出した。

前述したように、教育が実生活で生きていくのに役立たないので、フランス系カトリックの生徒の学校離れも、英系の生徒よりも早かった。14歳の義務教育修了後、未熟練工として都市に流入する若者は多かった。このようにして、英系の人々との経済的な格差や生活水準・教育水準の格差が一段と顕著になった。

https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900022768/Sh-H0020.pdf

 

 舞台に登場する4人の人物のルーツははっきりとは言及されないものの、名前から考えるとイーヴ(Yves)、ギィ(Guy)、ラトレイユ(Latreille)はフランス語系、ロバート(Robert)は英語系なのではないだろうか(ギィの立ち位置がいまいちわからないのだが……)。あの部屋をモントリオールという都市の縮図として見たとき、イーヴとロバートが展開する、〈まるで違う言語で話をしているかのような〉相互不理解を、フランス語系と英語系の衝突のメタファーとして読むことは不自然ではないだろう*2

 

 経済的な格差以外にも、フランス系カナダ人に対する差別はあったようだ。

詩歌Speak whiteは,幾層にも重なったコノテーションを含んでいる。whiteは、ここでは副詞的に用いられているが,「白人の言語」ということだろう。

周知のように,ケベック人は「白い黒ん坊 white nigger」と呼ばれて差別を受けてきた。英語以外の言語を話す者は白人ではないというわけである。Speak whiteは,本来,英語を使おうとしない人にむかって投げつけられた罵りの言葉であった。ミシェル・ラロンド Michele Lolande (1937-)は,その罵声をあえて自分の声に乗せることによって内面化し,社会的な弱者としての立場を積極的に引き受ける。また,6行目の「私たちは,無教養な吃音の民」は、フランス系住民を「歴史も文学ももたない民」と呼んだ,あのダラム報告書(1839年)への間接的な揶揄である。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/efj/32/0/32_KJ00009894630/_pdf/-char/ja

 なお、調べ方の問題もあると思うが、「ケベック人が"white nigger"と呼ばれていた」というのは他所で同じ言及を見つけらなかった。ケベック解放戦線の指導者であったピエール・ヴァリエールが「英語を話す支配階級の下で二級市民として扱われている」というのをわかりやすくたとえるために、自著内で"white nigger"という言葉を使ったことはあるらしいが……。ただし、フランス系カナダ人が「二級市民」として見られていたというのは確からしい。

 

 昔イーヴの家があったというウエストマウントはカナダでも随一の富裕層が居住する地域であり、相当裕福だったと思われる。そのイーヴが、いまはスラム街に住んでいる。これを、かつてケベック州を支配していたフランス系の人々が、いまは英語系の人々の支配下で「二級市民」として暮らしていることの比喩としてとらえるのは……さすがにこじつけだろうか。過去を──かつて自分たちのものだったケベックを──懐かしむようにウエストマウントの街並みを眺めるフランス系カナダ人、というのは。

※(0708追記)「ウエストマウントはモントリオール市に囲まれた英語話者のための別の市であり、彼は英語話者として生まれ育った」という情報をいただいたので、このくだりはかなりアレですね……笑

 

 イーヴはクロードと出会ったことで生まれなおす。自分を美しいものだと思えるようになり、そして「もう誰かの男娼にはなれない」と悟る*3。これを、「二級市民」として扱われてきたフランス系カナダ人が、「静かな革命」によって「ケベコワ」としての自我を得るに至ったことの二重写としてとらえるのはどうか?

 

 まあ、ケベックにおける人種の問題と結びつけて考えすぎてもこじつけになるだろうが、わざわざワードを散りばめている以上、まったく的外れというわけでもないのでは?と思う。それに、作者のルネ=ダニエル・デュポワは1955年にモントリオールに生まれたオープンリーゲイのケベコワであり、幼いころに1960年代のモントリオールを経験している。そんなルネ=ダニエル・デュポワが(立場はもしかするとクロード側なのかもしれないが)描くこの物語が、当時のフランス系カナダ人が置かれていた状況を無視して成り立つはずがないのだ。

 

 ということで、モントリオールにおけるフランス系カナダ人という背景をもとに『クロード』を少しだけ考えてみた。(作者の意図に合致しているかは置いておいて)改めて調べてみると、二重三重に意味が織り込まれた複雑な戯曲だと思う。もちろんまだまだ拾いきれていない要素や、見当違いな解釈もあるだろうが。

 『クロード』に限らず、特に海外の戯曲が上演される際に、観客としてどこまで予習というものをしていくべきなのか?でいつも悩む*4。国や時代が違えば、自分の持っている常識とは異なる部分が確実に出てくるし、前提となる知識が足りないなと思うことも多々ある。もちろん、それを日本で上演しても十分に面白い強度の戯曲を上演するのだろうし、どれだけカヴァーできるかが演出の役割であるとも思うが。『クロード』については、知識を必要としないでも読み取れる物語が存在しているから楽しめるのだと思う。

*1:余談だが、イーヴは7月5日時点でもうすぐ誕生日だと言われていた

*2:判事の名前はフランス語系だったと思うので、こじつけといえばこじつけだが……

*3:これはイーヴが「美しい人」と過ごしたときに実感したことである。わたしも混同していたのだが、この「美しい人」は酔っ払ってどうにもならない状態でベンチの隣に座ってくれないか、と頼んできたアメリカ人である。よってバーで出会ったケベコワのクロードとは別人で、クロードの部屋を出たあとに出会った客であると考えられる。クロードと魂の双子となり、愛に到達したイーヴが至った境地なのではないかと思う。

*4:怠惰なので、結局キャストすら調べずに観に行くことも多々あるが……。