夢と現実いったりきたり

(感想ドラフト)舞台「Being at home with Claude -クロードと一緒に-」2023

@横浜赤レンガ倉庫

 

 

STORY

1967年 カナダ・モントリオール。判事の執務室。

殺人事件の自首をしてきた「彼」は、苛立ちながら刑事の質問に、面倒くさそうに答えている。
男娼を生業としている少年=「彼」に対し、明らかに軽蔑した態度で取調べを行う刑事。部屋の外には大勢のマスコミ。

被害者は、少年と肉体関係があった大学生。

インテリと思われる被害者が、なぜ、こんな安っぽい男娼を家に出入りさせていたか判らない、などと口汚く罵る刑事は、取調べ時間の長さに対して、十分な調書を作れていない状況に苛立ちを隠せずにいる。

殺害後の足取りの確認に始まり、どのように二人が出会ったか、どのように被害者の部屋を訪れていたのか、不貞腐れた言動でいながらも包み隠さず告白していた「彼」が、言葉を濁すのが、殺害の動機。

順調だったという二人の関係を、なぜ「彼」は殺害という形でENDにしたのか。

密室を舞台に、「彼」と刑事の濃厚な会話から紡ぎ出される「真実」とは。

 

感想

2019以来の横浜赤レンガ倉庫での公演、そして松田イーヴのカムバック! あの夏わたし(や、まわりのひとたち)の心に爪痕を残していった松田イーヴにまた会えるのか……? という期待と、あまりにあのときのイーヴに恋をしているせいで、幻影を追ってしまっていたのではないか……? という不安が入り混じる中の観劇。2019とは全然違うのに、やっぱり松田イーヴのことは愛おしいという。もう1回観る予定だけど、Twitterの挙動がいまいち怪しいせいで感想を遡りづらそうなので、さっさとブログに書いてしまうことにする。というわけでいつもよりもさらに推敲しません。

 

セットについて。(記憶違いかもしれないけれど)もっと可変で概念としての《判事の部屋》だった2019、もっとがっつりセットを組んでいた2021、の中間くらいのセットだった。長机と入口のドアがしっかり据えつけてあって、舞台上で動かすのは椅子くらい。それも、いわゆる演劇的な意味で動かすわけではなくて、登場人物が実際に動かすだけなので、可変ではない。ただし、ステージのまわりに小道具が置いてあって、それを使うことはあった。覚えているのは、警護官がワインを飲んでいたり、イーヴが文庫本をとって読んだりしていたことくらいかな。2019は舞台がイーヴの心象風景として、2021は《現実の部屋》として展開していった印象を抱いていて、2023は(脚本や演出も含めて)どちらかというと《現実》寄りに感じた。今年のクロードも好きだったから不満というほどではないけれど、せっかくこの特殊な構造のハコでやるんだから《概念》寄りの方がはまりそうなのに……とは思った。

 

ラストは2021と同じく、イーヴが部屋の外に出ていって幕、というパターン。ただし、イーヴが去ったあとの刑事の芝居はなしでそのままカテコに入るのが2021と違うところ。この演目に関してはカテコはいらないかなあと思うけど、イーヴが出ていってしまうパターンならあってもいいのかな。2019の終わり方であれば絶対にいらない。

前回・前々回ともに一度しか観ていないので細かい脚本の違いは正直わからないのだけれど、イーヴの独白の終わりの台詞──そして2019の幕切れの台詞でもある「もうやめるよ」が「諦めるよ」に変わっていたのははっきりわかった。他に印象的な台詞たち、「僕たちはパンケーキみたいにひっくり返った」「くさっちゃう」「ミルクシェイクみたいに」は健在。あとは、刑事が「イーヴ」じゃなくて「イヴ」と呼んでいるように聞こえたかな。そもそも公式的には「イーヴ」ではなく「イーブ」という話もあるけれど、とりあえずわたしは「イーヴ」で通そうと思う。

イーヴの姉の話は覚えていたけれど、両親の話は全然覚えていなかった。速記官と刑事の会話があれだけ長かったかも覚えてないな……。井澤くんは速記官にするにはスタァすぎるのではないかという気がした。それが悪いとか、これまでの演者がどうとかの話ではなく。

演出は「ここが違った」というのをあげていけるような細かい違いではなく、全体的に変わっていた……はず。わたしたち観客はこの物語に「いない」な、と思ったのが(2019版と)一番違うところかなと思う。

 

初見時から4年経っていて、その間の自分の人間としての成長(微々たるものであれ)や、すでに何度か観て/知っている物語ということを差っ引いても、今回の演出・脚本は物語をかなりわかりやすくしていたのではないかと思う。4年も経っていれば当たり前に記憶は褪せていくので、どこまでどんなふうに変えているのか/いないのか確信はないけれども……。2021のときに「クロードって明確に社会構造についての話だったんだな」としみじみと驚いたのだけれど、そこがきっちりと伝わってくるというか。物語の起点である「なぜクロードがあの日に死んだ(殺された)のか?」という疑問の根っこにかかわる話だから、ここが伝わってくるかどうかってすごい大事なんだよな……。やっぱり、(イーヴの心象風景ではなく)現実の部屋が舞台となっていて、そして刑事たちの存在があるからこそ、その後ろにある社会構造がはっきり見えてくるのかなと思う。

 

2019のときは、序盤はイーヴに対してもイライラする気持ちをどこかに持っていたと記憶しているのだけど、今回はそれがまったくなくて、ずっとイーヴに寄りそう気持ちで観ていた。だからむしろ、刑事の言うことがずっとずれていると感じて、そこに対してのいらだちがあった。イーヴと刑事の相互不理解はお互いの言語化の方法が違うからだと思っていたけれど、刑事側がイーヴ──男娼であるイーヴを尊重していない、蔑視している、というのが最大の原因なのだということがわかった。イーヴと刑事に同等の責任があると思っていた自分の浅はかさや傲慢さがあまりに恥ずかしいが、初見時は社会構造の話であることを知らないままに観ていた……という言い訳をさせてほしい。

刑事から「(イーヴがクロードを殺す)動機がない」と言われたときのイーヴの反応が本当につらかった。クロードのような立派な人間と《イーヴのような》人間の人生が交差することなんてありえない、と言われたということだから……。冒頭からずっと刑事との相互不理解が続くけれど、あの場面で刑事に対しての諦めが決定づけられたのかな、と思う。その後、イーヴの独白に対して聞くふりをして一蹴するところで完全に決裂した印象。あんたにはきっとわからないだろう、という諦め。

 

観終わったあとに「イーヴを抱きしめてあげなくちゃ」という気持ちになるのがクロードの定番だと思っていたのだけど、今年のイーヴにはそうは思わなかった。それは決してイーヴが愛おしく感じられなかったからではなくて、「わたしたちが抱きしめてあげなくても大丈夫だ」と瞬発的に思った……のだけど、本当にそうなのだろうか? 「諦めるよ」という台詞が頭に残ってぐるぐるしている。2019のときは客席に刃を向けるように「お前らにはわからない」と拒絶していて、2021のときはきっと最後までわかってもらいたがっていた。今年は明確な敵意ではなかったけれど、そしてそれは客席に向けられてはいなかったけれど、「諦めるよ」か……。刑事たちに向けた、だらりとした諦念だったのではないか? 今回は遠めの席で、最後退場していくイーヴの表情がどういう表情なのか判別がつかなかったのが惜しい。次観るときはもう少し近めで表情を見られるはずなので、もうちょっと考えます。

 

イーヴがステージから降りてまた駆け上がってくる、というところで転んでいたのでひやっとした。カロリーも気力も使う芝居だと思うけれど、怪我のないようにだけ気をつけてほしい。

とりいそぎ:Twitterの移行先など

 

きのうおとといあたりから(言ってしまえばイーロン・マスクがCEO就任してからずっとではあるんですが)如実にTwitterの挙動が怪しくなってきたので、今後のことを考えて別サービスをちょこちょこ動かしていこうと思います。

 

移行先一覧

はてなブログ

移行先というか……ですが、今後もコンテンツの感想や日記などはここに書いていくつもりです。Twitterの挙動やマストドンの使用感によってはブログの比重を増やしてもいいのかなと思ってます。

 

Mastodon

Twitter的に使うならいまのところここかなと思ってます。ツイセーブ的なサービスがあればいいんですが……すでにあるか、なくても移行ユーザが増えれば出来そうかな? ブルースカイがいいとは聞くのですがなんせ招待コードがなかなか発行されないので……。

 

Instagram

鍵をかけてますが、誰のアカウントかわかれば許可します。(感想を書くわけではないですが)現場の記録用で使ってるアカウント。

 

 

自分がもともとSNSで積極的に人と繋がるタイプではなく、ブログがあれば発信の場的にはあんまり困らないのではないかな、とは思っているのですが、ゆるい交流……というか生存確認の場だったり、ブログを持っていない人のツイートを眺めることができなくなる/分散されてしまうと寂しいかもしれない。それで途絶えてしまうならそれまで、とも言えるかもしれないけれど、それくらいのゆるい縁でちょうどよかったのがTwitterの縁というか……。あとは、一時的な制限というふうには発表されてるとはいえ、主に自分がはまる前のジャンルの過去情報や知見のデータベースとして活用してきたのでそれにアクセスできないのはけっこう困るよなあという感じです。あと公式アカウントの情報とか……いろいろチェック漏れができそう。

 

 

ミュージカル「ダーウィン・ヤング 悪の起源」

@シアタークリエ

STORY

舞台は市街が9つのエリアに区分され、厳格なる階級制度が敷かれている架空の都市。200年の歴史を誇る全寮制のプライムスクールに入学した16歳のダーウィン・ヤング(大東立樹/渡邉 蒼)は、教育部長官のニース・ヤング(矢崎 広)を父に持つエリートだが、この世界の厳格な階級制度に疑問を抱いている。同じ考えを持つレオ・マーシャル(内海啓貴)と出会い、心を通わせた二人は、骨董品交換会で、古びたフードと、カセットプレイヤーを交換する。

30年前に16歳で何者かに殺害されたジェイ・ハンター(石井一彰)の追悼式典の場、感動的なスピーチをするニースの傍らで、ジェイの弟であるジョーイ・ハンター(染谷洸太)は大袈裟な式典を催すことに不満を漏らしている。ジョーイにとってこの30年は、常に兄のジェイと比較され、劣等感を抱き続けてきた30年間だったからでもある。ニースは、ジェイとともに同級生で親友同士でもあったバズ・マーシャル(植原卓也)から声をかけられ、ドキュメンタリー映画の監督としてプライムスクールの撮影をすることになったので、息子のダーウィンの協力を仰ぎたいと相談をもちかけられる。

そんな折、ダーウィンは密かに恋心を寄せている同級生のルミ・ハンター(鈴木梨央)から、力を貸してほしいと依頼される。好奇心旺盛で頭脳明晰なルミは、伯父であるジェイの部屋で見つけたアルバムの中から、1枚だけ写真が消えていることに気づいた。ジェイの死の真相に迫る《何か》が写っていたはずの写真の謎を突き止めるため、ダーウィンはルミと行動を共にすることに。

この世界の最下層エリアである第9地区、膨大なデータが眠る国立図書館ダーウィンとルミは、謎解きの旅の中で少しずつ真相に迫っていく。

60年前に起きた「12月革命」。その革命のリーダーだった 「額に大きな傷がある少年」、その特徴と奇妙に符合するダーウィンの祖父であるラナー・ヤング(石川 禅)・・・。

さらに、ラナーが第9地区の出身でありながら、第1地区の教育部長官にまで上り詰めた父ニースの知られざる過去。

真相に近づくに従い、ダーウィンの祖父と父が、それぞれ闇に葬った秘密が明らかにされていく。殺害されたジェイ・ハンターの死の真相は?古びたフードとカセットプレイヤーに隠された秘密は?そして、タイトルが暗示する「悪の起源」とは何を意味するのか?すべてを知った時にダーウィンが選んだ道は?

親子孫の三世代の運命が交錯する、壮大なる人間ドラマが今、始まる―。

 

CAST

ダーウィン・ヤング:大東立樹(Wキャスト)

ニース・ヤング:矢崎広

バズ・マーシャル:植原卓也

レオ・マーシャル:内海啓貴

ジェイ・ハンター:石井一彰

ジョーイ・ハンター:染谷洸太

ルミ・ハンター:鈴木梨央

ラナー・ヤング:石川禅

 

感想

 正直なところ、曲も演出も脚本もそんなに好きではなかったので、作品としてはあんまり乗り切れず……ではあった。チケットを取り渋っていたのも自分向けではないかもなあという予感があったからで、想定内ではあったけど。『太平洋序曲』でいい役者だなと思った染谷さんがプリンシパルキャストということに後押しされて観に行ったのだけど、ジョーイ単体だとそこまで歌がなかった……。というか、全体的にキャストの歌を楽しめる曲じゃなかったような。みんなもっと上手いはずなのに?とも思った。その中でも禅さんの歌声は響き渡っていたが。

 「不幸の連鎖」や「血の呪い」という嫌いではないはずのテーマなのに、いまいちはまりきらなかった理由を振り返って考えてみると、作品を通して父親への愛と階級社会が強固に存在していて、それが特に転覆されることもなく終わった……というのが合わなかったのかもしれない。血の呪いも階級による差別も、転覆まで持っていかなくとも、批判的なまなざしで描かれてほしいと思うのはわがままではないと思う。

 メインテーマであるヤング家(ラナー-ニース-ダーウィン)の連鎖については、構造ありきだなあと思ってそれ以上感じるものがなかった(「血縁」があたりまえに他の人間関係より優先されていることにむかついてるのかもしれない。そういう呪いに抗ってほしいのだと思う)。そもそもの話、3世代の因果や対比を描いている、と評するには、ダーウィン世代を描き切れてないように感じた。1幕で時間を割いて描いているわりには、ダーウィン世代の物語が薄く思える。ここをしっかり描けていないから、ドラマよりも構造が前に出ているように見えて醒めてしまったのかもしれない。逆に、ダーウィン世代よりは分量を割かれてないはずのニース世代の物語がとても濃く感じる。それによってまるでニースが主役のように見えるのは(作品のテーマを考えると)バランスとして微妙なのでは、と思った。

 

 階級社会とそれにともなう差別も、ただ物語とキャラクターのエッセンスとして存在してるように見えたのがもやっとした一因だと思う。バズの中には〈ジェイの母親(「下」の階級出身)〉という傷が残ってるんだろうというのはわかるし、それが教育に反映されて息子のレオの人格形成に繋がったんだろう、というのもわかる。そこまではいいのだけど、当のレオが結局ダーウィンの「父への愛」によって殺されてしまうからなあ。自分の中で、レオが殺されることに関して承服しかねているのだと思う。自分が思っている以上に。

 

 末満さんはミュージカルの歌詞を書くのは失礼ながらあまりうまくないと思っているのだけど、今回の訳詞はどこまで末満さんが絡んでいるのだろうか。曲自体そこまで好きではないけれど、歌詞もいまいちぴんとこなかった。演出面も、1幕が特に好きではなく……。演出に限らず、1幕の全体的な流れがあまり肌に合わなかった。場面で言うと、プライムスクールの面々とダンスを踊るシーンとレオとダーウィンの自転車のシーンはいらないのでは? と思った。自分向けじゃなかったということなんだろうけど。あと、これは単に文句なのだけど、サイド席でもないのにセットの奥のカーテンが開いて裏が見えてしまっている・カーテンを引く音がまあまあ大きく聞こえる、というのは萎えるのでなんとかしてほしいと思った。客席に照明を向ける演出については、(個人的にまぶしさに弱いのもあると思うが)目を開けていられなくなることが何度かあり、効果的に使う分にはいいけど、こんなに多用する必要が? と思ってしまった。それから、(そこが末満さんっぽいといえばぽいのだが)役者の年齢と演じる年齢のずれというメタ要素にわざわざ面白おかしく触れるのはまったく面白くないので、いらないと思う。

 

 と、作品に対してはあまり評価していないとはいえ、ニース・ヤングに対して異様に萌えを感じてしまっておかしくなりそう、というのは事実としてあるのがまたややこしい。矢崎広という役者にもともと好感を抱いているのを差し引いても、ニースというキャラクターの解像度の高さ、書き込みの緻密さは一体どういうことなのだろう。ニースに限らず、ニース世代の話になるとぐっと奥行きが出てくるように感じた。3人の関係性も、現在に至った経緯も、ちゃんと違和感なく「たしかに存在している」と思えるというか。ジョーイを含めた彼ら世代の話や因縁はたぶんもっといろいろあるんだろうな、と思ったので、そこが描かれているのなら原作も読みたい。

 ジェイの亡霊にとらわれているニースのことが大好きではあるのだけど、関係性として見たとき、ジェイ-バズの関係性がより好きだなと思う。〈悪意〉──相手を少し引っ掻いてやろうというこどもじみた、しかし剥き身で純粋な、たちの悪い悪意──が漂うジェイの部屋、あれが劇中で一番好きだった。ジェイとバズが〈悪意〉をちらつかせる中、それをキャッチできないニースという、ギリギリのバランスで成り立っていたあの部屋! 〈悪意〉をキャッチできないということが、16歳時点のニースという人間をよくあらわしている。存在するだけでカンフル剤になったり、逆に他人にプレッシャーを与えてしまう、そしてそのことに自分では気づいていない、ある意味では一番厄介な存在だと思う。

 ジェイの行き場を失った〈悪意〉がニースに向けられることで起きてしまった悲劇。ジェイもバズも、バランスを見誤ってしまった。ジェイは皆が言うような完璧な人間ではなかったし──〈悪意〉に耐性がないニースが初めて対面するには、あまりに柔らかすぎる部分を、あまりに鋭利に傷つけるものだった。

 ニースはずっとジェイの亡霊とともに生きているし、一見すると自由に生きているかのようなバズも、どこかであの日に囚われている。バズ・マーシャルの映画は、階級社会の打破に寄与するだろうか? これに首を縦に振れないこと(そしてそもそも、これは特にフィーチャーされない問題なのだが)がこの作品に対してわたしが抱くしこりなのだろうと思う。

2023年4月のまとめ

追いついていないまま水無月

 

 

演劇

舞台「ダブル」

 

舞台「ブレイキング・ザ・コード」

@シアタートラム

STORY

第二次世界大戦後のイギリス。
エニグマと呼ばれる複雑難解なドイツの暗号を解読し、イギリスを勝利へ導いたアラン・チューリング
しかし、誰も彼のその功績を知らない。
この任務は戦争が終わっても決して口にしてはならなかったのだ。

そしてもう一つ、彼には人に言えない秘密があった。
同性愛が犯罪として扱われる時代、彼は同性愛者だった。

 

感想

 亀田さんは好きなんだけど、いまいちはまりきらず。同じ原作から作られた映画『エニグマ』は以前見たことがあって、結構好きだったと思う。「エニグマ解読」というチューリングの人生の中でもわかりやすくドラマ性の高い出来事に主眼を置いていた『エニグマ』に対して、逆にそこをばっさりカットしている『ブレイキング・ザ・コード』という戯曲のあり方はわからなくはないんだけど。チューリングのロン(特にロン、という意味で)への態度が引っかかったまま解消されずに終わって、「物語に置いて行かれた」と思った。本当にロンが8ドルを盗んだのか? いや、盗んでいたとしても、チューリングのあの態度は問題がなかったのだろうか? わたしが勝手に気にかけていた問題がこの物語の中では消化されなかったという話なのか、単純にチューリングのことを愛せなかっただけなのか。

 

舞台「Our Bad Magnet」

 

こまつ座「きらめく星座」

 

舞台「ラビット・ホール

 

月組「『応天の門』-若き日の菅原道真の事-/Deep Sea -海神たちのカルナバル-」

@東京宝塚劇場

https://kageki.hankyu.co.jp/revue/2023/outennomon/index.html

STORY

藤原良房とその養嗣子・基経が朝廷の権力を掌握しつつあった平安初期。京の都では、月の子(ね)の日に「百鬼夜行」が通りを闊歩し、その姿を見た者を取り殺すという怪事件が頻発していた。幼き頃から秀才との誉れ高き文章生・菅原道真は、ひょんなことから知り合った検非違使の長・在原業平にその才気を見込まれ、この怪事件の捜査に協力する事となる。唐渡りの品を扱う勝気な女店主・昭姫(しょうき)らの協力の元、次第に事件の真相に近付いてゆく道真。だがその背景には、鬼や物の怪の仕業を装い暗躍する権力者たちの欲望が渦巻いていた…。

感想

 わたしは田渕シンパを自称しているのだけど、「応天の門」は原作ものがゆえにわたしが感じている田渕作品のよさがあまり出てない印象だった。わたしが買っているのは(多少粗さはあっても)やりたいことが明確、かつその内容に首肯できる、というところなので。稲葉ショーがあまり得意ではないのだけど、「Deep Sea」は振り切っちゃってるからもうこれはこれでいいか……という気持ちになった。ただやっぱり趣味が合わない。礼華はるくんをカッコイイと思う心が芽生えるの巻。

 

(※)「エンジェルス・イン・アメリカ」第一部/第二部

@新国立劇場小劇場

 すごく楽しみにしていて、ちゃんと通しで観られるようにチケットをとっていたし劇場にも行った……のだけど、一部の途中で体調が悪くなって諦めた。これを観に行く少し前に電車で倒れたこともあり*1、もしものことを考えて劇場のバックヤードで休ませていただきました。ここに書いたって仕方ないのだけど、劇場スタッフのみなさまありがとうございました……。発熱とかそういう体調不良ではないのであしからず。

 

お笑い

特別公演 お客様に感謝の日(13時)

@ヨシモト∞ドーム

友達に見てもらおうと思って取ったんだけど肝心の友達が体調不良で来られなくなってしまった……。全員知ってる前提で崩しまくりのスタバ。小野さんが教えてくれようとする珍しいパターン。

 

 

ヤーレンズが新ネタと後輩を見てもらうライブvol.1

@新宿GEKIBA

ヤーレンズを見に行きたくて行った。出演してる後輩がもぎりとか撮影とかやってて、大学で所属してた音楽サークルのライブを思い出して懐かしくなったりした。誰かが言ってた「ヤーレンズを地下で見られるのも今年で終わり」って言葉を信じています。

 

 M-1ツアースペシャル(12時)

@SHIBUYA LINE CUBE

個人的な話だけど、Twitterの仕様変更で鍵アカウントのツイートをサルベージできなくなってしまったのでM-1ツアー以降はiPhoneのメモにライブの記録をつけている。ダイヤモンドは雑誌のネタ。小野さんによるケビンス仁木・オズワルド伊藤が見られた。ヤーレンズが噂だけ聞いていて見てみたいなと思っていたテイラーのネタを「12分きっかり」*2でやってくれた。オズワルドは畠中が出られなくなって急遽ピンネタをやることになった伊藤が子鹿のように震えていた。

 

ナルゲキロックス

@西新宿ナルゲキ

初のナルゲキ。この値段でこのボリュームでこのクオリティでいいのか!?と思ってしまうほど満足度が高かった。出てくる芸人が軒並みちゃんと面白いし立地も悪くない(劇場までの道がうるさくないのがうれしい)し。目当てのサツマカワRPG爆風スランプの「旅人よ」に乗せたフリップネタで、だいぶ好きだった。ガクヅケのネタから無駄のない美しいWABI-SABIを感じて好きになってしまった。

 

トンツカタンのソロライブ&クラウンモーニングパレード

@西新宿ナルゲキ

とにかくトンツカタンにハマっていたのでライブで見られたのがうれしい。お抹茶考案のつめつめのタイムテーブルも「らしさ」が詰まっていてよかった。2本目の櫻田作のネタ(なんと1年3ヶ月ぶり2度目の披露)で大爆笑してしまった。問題作。続くモーニングパレードでは虹の黄昏に夢中になってしまい、さらに終演後野沢さんがファンの男の子に軽やかに対応しているのを見て、完全にメロメロになっちまったよあたしゃ……。ふたりともバンドマンみたいな色気があってさ……。最後まで見終わるとぐったりしていて、「笑い疲れる」ってこういうことなんだな……と思った。

 

 

 

 

 

*1:初めて救急車で運ばれた。ちゃんと検査した結果異常ななかったです。

*2:M-1ツアーの持ち時間は6分

舞台「ラビット・ホール」

@PARCO劇場

 

STORY

4歳のひとり息子を亡くした若い夫婦ベッカとハウイー。息子は、飼い犬を追いかけて飛び出し、交通事故にあった。ふたりの悲しみへの向き合い方は真逆で、お互いの心の溝は広がるばかり。妻ベッカは、彼女を慰めようとする妹や母親の言動にもイラつき、深く傷ついていく。ある日、事故の車を運転していた高校生ジェイソンから会いたいと手紙が届く。それを読んだベッカは・・・・
 
悲しみの底から、人はどうやって希望の光を手繰り寄せるのか。人間の希望の本質とは何か。「ラビット・ホール」は、わたしたちの身の回りのありふれた風景や会話から、確かな希望の光を鮮やかに紡ぎ出します。

 

感想

 どうでもいい話だけど、なぜか劇場に辿り着くまでに変に迷ってしまった。渋谷は鬼門。

 戯曲も芝居も演出もクオリティは高い……と思うんだけど、前提としてあまり得意な話ではなかったのではまれなかった。個人の問題として家族のことがわからなさすぎる。が、台詞に「翻訳劇っぽさ」がなくシームレスに入ってくる感じがあり、インタビューで語られていたとおりそのあたりをかなり丁寧に作り上げたんだろうなというのはわかった。個人的には演劇を観るときは必ずしも「リアルな」会話を求めておらず、日常会話では絶対に使わないような「台詞」を求める場合もあるのだけど、この内容だと「リアルな」会話を選択するほうが理にかなっていると思った。

 そもそもの話、PARCO劇場でかかる芝居というのが志向として自分にあんまり馴染まないのかも、と思った。勝手な印象だけど「丁寧な暮らし」感というか、言葉は悪いけどスノッブ感が漂っている気がして……なんか変に綺麗な印象があってそれがほんのり鼻につくっていう。自分の好みとして、もうちょっとざらついた質感のものを求めてるんだと思う。これを書くにあたって公式サイトを見ていたら、煽り文句に「すべての人に響く物語」とあって、すごいこと言うじゃん? と思ったし、そういうとこが苦手なのかもとも思った。

 ベッカが公開講座のようなところで文学の講座を受けていて、「暇な専業主婦たち」がそこでは家庭の話なんて一切せず、ただのひとりの人間として文学の話だけするのが楽しい、と言っているところは好きだった。人間が家庭や社会における役割から降りてただの個人になる場は絶対必要なので。

 あとはシンプルに「『夫』の成河だ……」と思いました。雑念。ハウイーのことは全然好きじゃないです。

 

 

こまつ座「きらめく星座」

@紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

 

 

STORY

時代が押し付ける重い空気
そんな流れに負けず
懸命に生きた庶民たちの物語

刻一刻と暗い時代へと突入していく中、
求められるのは"軍國歌謡"か"敵性音楽"か。
太平洋戦争前年からの一年間を描いた
井上音楽劇の代表作。

 

 

感想

 井上ひさしの作品は初めて観たと思う。音楽によって心を癒して・支えて人間らしく生きる家族(ここでいう「家族」=同じ屋根の下でともに生きる人々)の話。戦時下の話なのに、一家のキャラクターのおかげで軽快に楽しげに進んでいく。彼らはただ考えなしに明るく過ごしているわけではないのだけど、物語が「家の中」で展開していくから明るく楽しく見える。実際は非国民として石を投げられるような家なんだけど。

 そんな「家」に入ってきた根っからの軍人・源次郎をコメディチックに描くことで批判を加えつつ、彼が教え込まれてきた「道義」が欺瞞であることもつまびらかにしていく。明らかに異物である源次郎に対して排除するわけでも態度を硬化させるわけでもない一家の態度がすごい。対立じゃなくて、いつのまにか「家」の一員になっていく過程が描かれるのには、悪いのは源次郎自身ではないという意図があるのかな……と思った。源次郎の身体にへばりついていた/もはや身体の一部だった「道義」を引っぺがす作業に彼が失くした右手の幻肢痛を重ねて、どれだけ苦しみを伴う作業なのかをわかりやすく伝えていたのがよかった。

 日本人として戦時下に生きることに絶望させて終わらせるのではなく、星を見上げることによって「生」自体は肯定するように導くやさしさと、だけどそういうことを全部薙ぎ倒していくのが戦争である、というのを誤魔化さないことで反戦の意志をしっかり見せるのがあのラストなのだと思った。

 直接に戦線に出なくとも、女性には女性の苦しみがある、という言及があったことに「おっ」となった。これが2023年の戯曲だったらもう一歩踏み込んでほしいなと思ったかもしれないけど。軍国乙女が傷痍軍人に嫁ぐくだりのグロテスクさはバカバカしさとして描かれてる……と受け取っていいのかな。ここは言い切るほどの自信がない。

 すごく久しぶりに村井さんを見て、やっぱりいい役者だなと思った。出ずっぱりではないんだけど、出てくるたびに飛んだり跳ねたりタンゴを踊ったりで楽しく場を引っ掻き回していった末に真剣な心情の吐露が来るずるい役どころ。潜伏先で合唱団作っちゃう正一のことを愛さずにいられないよな。衣装替えもたくさんあって目にも楽しいし、ちゃんと乗りこなせる村井さんはさすが。

 

▲星の話は『嘲笑』を思い浮かべながら聞いた。

 

▲劇中で使われてたものは見当たらなかったので高田渡バージョンで……。歌詞も違う。

舞台『Our Bad Magnet』

@東京芸術劇場シアターウエス

 

STORY

舞台はスコットランド南西部の海岸添いにある小さな町、ガーヴァン。登場するのはアラン、フレイザー、ポール、ゴードンの4人の同級生たち。かつては人気観光地だったがすっかり廃れてしまったその町に、29歳になった彼らが苦い思い出を抱えながら集まってくる…。地元に残ったアラン、元リーダー格のフレイザー、ロンドンで働くポール、そして…。彼らの9歳、19歳の場面を行き来しながら、思い出たちが少しずつ明らかになっていき…。

2000年にスコットランドグラスゴーで初演以来、世界15か国以上で上演されている人気作を新翻訳で上演。劇中劇を盛り込みながら現実とファンタジーが交差し、人生の真実を浮き彫りにしていく切なく美しい青春群像劇。

 

感想

 Dステ版『淋しいマグネット』が大好きなんです。

 今回、unratoで『Our Bad Magnet』(『淋しいマグネット』の原題)を上演すると知ってからずっとこの物語を生で観られることを本当に楽しみにしていて、しすぎて、観劇したいまも何から語るべきかわからなくなってしまっている。結論から言うとめちゃくちゃよかった。戯曲*1もぱらぱらと確認した感じ、Dステ版は『Our Bad Magnet』の再構築版であって、今回のunrato版はおそらくもっと戯曲に近いかたちで上演されている。キャラクターの描き方や「物語」の演出の付け方がかなり異なるので作品としての手触りも違うのだけど、個人的にはどちらもそれぞれに好きだし、どちらもラストシーンのカタルシスでたまらなくなる。

 Dステ版はかなり「物語」のアレゴリー性を高めていて、さらにリューベン(ギグルズ)をあくまで「物語」の語り手として置くことによって彼の実在性を希薄に、あくまで他の3人の記憶の中の存在として提示していたのだが、今回の上演においては、ギグルズも一人の実在する人間であることを強く意識させられた。ギグルズの「物語には彼の経験が反映されており、ギグルズはカースティンとして、あるいは磁石としてそこにいる。ギグルズの「物語」と現実は直接に連関しているのである。

 フレイザーの「同じ人間の話をしてるんだよな?」という台詞があるように、フレイザー・ポール・アランの3人は、10年前に死んだ──あるいは消えたギグルズについてばらばらの見解を持っている。それは単に人間の記憶があいまいなものだということもあるが、ある人間にとっての「事実」というものは彼がどのようにその出来事を消化したかに依拠する、という前提があるからだ。〈ニムストン〉という単語の考案者(ポール→アラン)や単語に付される意味*2が変遷していくように、「ギグルズの死/失踪」という出来事に対して、3人は各々の好きなように意味を付し、好きなように解釈を加えている。が、ギグルズの実在性をひしひしと感じる演出のために、「ギグルズが実際どう考えていたか、どんな人間だったかは正確にはわからない」というふうには思わず、おそらく彼は『悪い磁石』の筋書きの通り〈悪い磁石〉になるために身を投げたのだろう、と素直に受け取った。

 『悪い磁石』のラスト、〈悪い磁石〉=ギグルズが崖から身投げをするのを全員が全速力で追いかけるあの心象風景が意味するのは、3人があの10年間、ギグルズをずっと追いかけてきたということだ。同じひとりの人間のことを。彼らはギグルズが〈悪い磁石〉にならなければ幸せに生きてはいかれない、と思うことを止められなかった。誰しもの胸の中にあった「なぜギグルズはそんなふうに思ったのか?」という疑問、その原因をどこに見たのか。それが彼ら3人が悲しいまでに食い違う原因である。しかし、彼ら3人は10年間それぞれの必死さでその疑問と付き合ってきた。『悪い磁石』を読んだあとの3人が、それぞれに必死であるようす──アランは機械の手入れをし、ポールは取り憑かれたようにギグルズの天才性を説き、フレイザーは塞ぎ込んでいる──を見ていれば、それは明らかだ。それぞれが負い目を感じていて、逃げていて、だけど必死であった10年間のことがはっきりと見てとれる。そんな彼らだからこそ、『空の花園』をなぞったあのラストシーンのカタルシスが映えるのであり、どうか種が芽吹くように願わずにいられないのである。

 

 Dステ版とかなり違うと感じたキャラクターについて。特にフレイザーはかなり印象が異なっており、フレイザーとギグルズの関係性がこの物語において重要な意味を持つというのがわかりやすくなっていたと思う。フレイザーが自分が一番ギグルズのことを理解している、と感じているのは──実際、フレイザーの知らないギグルズの一面があることも示されるのだが、やはりあの小学校の夜があるからだ。フレイザーがヒューゴに言わせる〈汚い言葉〉でギグルズは発作を起こすが、あの言葉は実は途中から〈フレイザーが父親から言われた言葉〉にすり替わっている。直接的な描写はないが、フレイザーはエリートである両親から抑圧されており*3、「(父親のことが)たぶん嫌い」としている。最初はヒューゴの口を借りてギグルズを揶揄っていたはずのフレイザーが、いつのまにか曇った顔で自身が父親から受けている言葉の暴力を告白しているのである。父親から虐待を受けているギグルズは発作を起こしてヒューゴを痛めつけ、フレイザーはそれを止めるのではなく、ギグルズに協力してヒューゴを壊す。つまり、あの小学校の夜はギグルズとフレイザーがヒューゴ=父親を殺して共犯になった夜なのである。だからああして抱きしめ合う。だからフレイザーはギグルズのことを一番理解しているのは自分だ、と思っている。そしておそらくはギグルズもフレイザーのことを想っている。近寄りたくても近寄れないきれいな磁石とはフレイザーのことで、〈悪い磁石〉になるのは小学校での「いい幽霊になって会いに行く」という約束が念頭にあるのだろう。

 

 やっぱりとても好きな戯曲だった。暗転時の爆音BGMにはいまいちハマりきれなかったけど、キャラクターの解釈とそれに沿った演出は納得できるところも多かったし、ああこういう物語だったんだ、と理解しやすくなっていたと思う。アランというキャラクターがそもそも泣かせどころではあるのだけど、アラン役の奥田さんがすごくよかった。

 

SET LIST

フォロワーに教えてもらったものがほとんどだけど、劇中で使われてた曲などのメモを。

 

The Post War Dream - Pink Floyd

The Post War Dream

The Post War Dream

最初にかかってた曲。

 

Love Will Tear Us Apart - Joy Division

暗転時にかかってた曲。

 

Losing My Religion - R.E.M.

Losing My Religion

Losing My Religion

レセプションで演奏する曲としてアランが挙げた曲。暗転時にもかかってたような……?

 

Creep - Radiohead

客出しでかかってた曲。クサいけど沁みる。

 

Pellicule - 神門

Pellicule

Pellicule

  • 神門
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥255

劇場ではかかってないけど、パンフレットで演出家が引用していた曲。

 

曲名は出てないけど、ポールがチョイスしたThe Cureから勝手に2曲。

Just Like Heaven

Just Like Heaven

Just Like Heaven

Boys Don't Cry

Boys Don't Cry

Boys Don't Cry

 

*1:kindleで英語版が買える

*2:「一本足の人間」→「うすのろ」→シビルエンジニア用の専門用語

*3:「何もさせてもらえない」「いつも怒鳴られる」