夢と現実いったりきたり

ミュージカル「ダーウィン・ヤング 悪の起源」

@シアタークリエ

STORY

舞台は市街が9つのエリアに区分され、厳格なる階級制度が敷かれている架空の都市。200年の歴史を誇る全寮制のプライムスクールに入学した16歳のダーウィン・ヤング(大東立樹/渡邉 蒼)は、教育部長官のニース・ヤング(矢崎 広)を父に持つエリートだが、この世界の厳格な階級制度に疑問を抱いている。同じ考えを持つレオ・マーシャル(内海啓貴)と出会い、心を通わせた二人は、骨董品交換会で、古びたフードと、カセットプレイヤーを交換する。

30年前に16歳で何者かに殺害されたジェイ・ハンター(石井一彰)の追悼式典の場、感動的なスピーチをするニースの傍らで、ジェイの弟であるジョーイ・ハンター(染谷洸太)は大袈裟な式典を催すことに不満を漏らしている。ジョーイにとってこの30年は、常に兄のジェイと比較され、劣等感を抱き続けてきた30年間だったからでもある。ニースは、ジェイとともに同級生で親友同士でもあったバズ・マーシャル(植原卓也)から声をかけられ、ドキュメンタリー映画の監督としてプライムスクールの撮影をすることになったので、息子のダーウィンの協力を仰ぎたいと相談をもちかけられる。

そんな折、ダーウィンは密かに恋心を寄せている同級生のルミ・ハンター(鈴木梨央)から、力を貸してほしいと依頼される。好奇心旺盛で頭脳明晰なルミは、伯父であるジェイの部屋で見つけたアルバムの中から、1枚だけ写真が消えていることに気づいた。ジェイの死の真相に迫る《何か》が写っていたはずの写真の謎を突き止めるため、ダーウィンはルミと行動を共にすることに。

この世界の最下層エリアである第9地区、膨大なデータが眠る国立図書館ダーウィンとルミは、謎解きの旅の中で少しずつ真相に迫っていく。

60年前に起きた「12月革命」。その革命のリーダーだった 「額に大きな傷がある少年」、その特徴と奇妙に符合するダーウィンの祖父であるラナー・ヤング(石川 禅)・・・。

さらに、ラナーが第9地区の出身でありながら、第1地区の教育部長官にまで上り詰めた父ニースの知られざる過去。

真相に近づくに従い、ダーウィンの祖父と父が、それぞれ闇に葬った秘密が明らかにされていく。殺害されたジェイ・ハンターの死の真相は?古びたフードとカセットプレイヤーに隠された秘密は?そして、タイトルが暗示する「悪の起源」とは何を意味するのか?すべてを知った時にダーウィンが選んだ道は?

親子孫の三世代の運命が交錯する、壮大なる人間ドラマが今、始まる―。

 

CAST

ダーウィン・ヤング:大東立樹(Wキャスト)

ニース・ヤング:矢崎広

バズ・マーシャル:植原卓也

レオ・マーシャル:内海啓貴

ジェイ・ハンター:石井一彰

ジョーイ・ハンター:染谷洸太

ルミ・ハンター:鈴木梨央

ラナー・ヤング:石川禅

 

感想

 正直なところ、曲も演出も脚本もそんなに好きではなかったので、作品としてはあんまり乗り切れず……ではあった。チケットを取り渋っていたのも自分向けではないかもなあという予感があったからで、想定内ではあったけど。『太平洋序曲』でいい役者だなと思った染谷さんがプリンシパルキャストということに後押しされて観に行ったのだけど、ジョーイ単体だとそこまで歌がなかった……。というか、全体的にキャストの歌を楽しめる曲じゃなかったような。みんなもっと上手いはずなのに?とも思った。その中でも禅さんの歌声は響き渡っていたが。

 「不幸の連鎖」や「血の呪い」という嫌いではないはずのテーマなのに、いまいちはまりきらなかった理由を振り返って考えてみると、作品を通して父親への愛と階級社会が強固に存在していて、それが特に転覆されることもなく終わった……というのが合わなかったのかもしれない。血の呪いも階級による差別も、転覆まで持っていかなくとも、批判的なまなざしで描かれてほしいと思うのはわがままではないと思う。

 メインテーマであるヤング家(ラナー-ニース-ダーウィン)の連鎖については、構造ありきだなあと思ってそれ以上感じるものがなかった(「血縁」があたりまえに他の人間関係より優先されていることにむかついてるのかもしれない。そういう呪いに抗ってほしいのだと思う)。そもそもの話、3世代の因果や対比を描いている、と評するには、ダーウィン世代を描き切れてないように感じた。1幕で時間を割いて描いているわりには、ダーウィン世代の物語が薄く思える。ここをしっかり描けていないから、ドラマよりも構造が前に出ているように見えて醒めてしまったのかもしれない。逆に、ダーウィン世代よりは分量を割かれてないはずのニース世代の物語がとても濃く感じる。それによってまるでニースが主役のように見えるのは(作品のテーマを考えると)バランスとして微妙なのでは、と思った。

 

 階級社会とそれにともなう差別も、ただ物語とキャラクターのエッセンスとして存在してるように見えたのがもやっとした一因だと思う。バズの中には〈ジェイの母親(「下」の階級出身)〉という傷が残ってるんだろうというのはわかるし、それが教育に反映されて息子のレオの人格形成に繋がったんだろう、というのもわかる。そこまではいいのだけど、当のレオが結局ダーウィンの「父への愛」によって殺されてしまうからなあ。自分の中で、レオが殺されることに関して承服しかねているのだと思う。自分が思っている以上に。

 

 末満さんはミュージカルの歌詞を書くのは失礼ながらあまりうまくないと思っているのだけど、今回の訳詞はどこまで末満さんが絡んでいるのだろうか。曲自体そこまで好きではないけれど、歌詞もいまいちぴんとこなかった。演出面も、1幕が特に好きではなく……。演出に限らず、1幕の全体的な流れがあまり肌に合わなかった。場面で言うと、プライムスクールの面々とダンスを踊るシーンとレオとダーウィンの自転車のシーンはいらないのでは? と思った。自分向けじゃなかったということなんだろうけど。あと、これは単に文句なのだけど、サイド席でもないのにセットの奥のカーテンが開いて裏が見えてしまっている・カーテンを引く音がまあまあ大きく聞こえる、というのは萎えるのでなんとかしてほしいと思った。客席に照明を向ける演出については、(個人的にまぶしさに弱いのもあると思うが)目を開けていられなくなることが何度かあり、効果的に使う分にはいいけど、こんなに多用する必要が? と思ってしまった。それから、(そこが末満さんっぽいといえばぽいのだが)役者の年齢と演じる年齢のずれというメタ要素にわざわざ面白おかしく触れるのはまったく面白くないので、いらないと思う。

 

 と、作品に対してはあまり評価していないとはいえ、ニース・ヤングに対して異様に萌えを感じてしまっておかしくなりそう、というのは事実としてあるのがまたややこしい。矢崎広という役者にもともと好感を抱いているのを差し引いても、ニースというキャラクターの解像度の高さ、書き込みの緻密さは一体どういうことなのだろう。ニースに限らず、ニース世代の話になるとぐっと奥行きが出てくるように感じた。3人の関係性も、現在に至った経緯も、ちゃんと違和感なく「たしかに存在している」と思えるというか。ジョーイを含めた彼ら世代の話や因縁はたぶんもっといろいろあるんだろうな、と思ったので、そこが描かれているのなら原作も読みたい。

 ジェイの亡霊にとらわれているニースのことが大好きではあるのだけど、関係性として見たとき、ジェイ-バズの関係性がより好きだなと思う。〈悪意〉──相手を少し引っ掻いてやろうというこどもじみた、しかし剥き身で純粋な、たちの悪い悪意──が漂うジェイの部屋、あれが劇中で一番好きだった。ジェイとバズが〈悪意〉をちらつかせる中、それをキャッチできないニースという、ギリギリのバランスで成り立っていたあの部屋! 〈悪意〉をキャッチできないということが、16歳時点のニースという人間をよくあらわしている。存在するだけでカンフル剤になったり、逆に他人にプレッシャーを与えてしまう、そしてそのことに自分では気づいていない、ある意味では一番厄介な存在だと思う。

 ジェイの行き場を失った〈悪意〉がニースに向けられることで起きてしまった悲劇。ジェイもバズも、バランスを見誤ってしまった。ジェイは皆が言うような完璧な人間ではなかったし──〈悪意〉に耐性がないニースが初めて対面するには、あまりに柔らかすぎる部分を、あまりに鋭利に傷つけるものだった。

 ニースはずっとジェイの亡霊とともに生きているし、一見すると自由に生きているかのようなバズも、どこかであの日に囚われている。バズ・マーシャルの映画は、階級社会の打破に寄与するだろうか? これに首を縦に振れないこと(そしてそもそも、これは特にフィーチャーされない問題なのだが)がこの作品に対してわたしが抱くしこりなのだろうと思う。