NCT 127 3RD TOUR ‘NEO CITY : JAPAN - THE UNITY’@名古屋
SETLIST
2024/01/07 17:00-20:00
2024/01/08 16:00-19:00
NCT127の2回目のドームツアーの皮切りとなる名古屋公演2日間に年明けから参加してきた。年末年始は関西の実家に帰っていたので、そこからそのまま名古屋へ向かって、名古屋から自宅に戻った。観光とか旅行の側面についてはしずかなインターネットに書いた。名古屋はいいところだ。
THE UNITYというコンサート自体は昨年韓国で開催されているのだけど、いろんな要因が合わさって行けず、配信もいろんなことがあって見れずじまい(その後TVが壊れてHDDが吹っ飛んだのでむしろよかったのかもしれない)だったので、完全なる初見で臨んだ。セトリや演出にいちいち驚いたり喜んだりできるのが初見の醍醐味。KPOPアイドルのコンサートって、基本韓国→海外→韓国(アンコン)という日程で開催されるから、日本のツアーを待ってる状態だと初見が配信になりがちだけど(日本の場合日本向けのアルバムが出たりするから多少セトリが変わるとはいえ)、やっぱり初見は現場がいいなあと思いなおした。韓国公演に行けという話だな……。
雑感
総括
イリチルの単コンは2020年のほうのThe Origin、2022年のTHE LINKと一応全部観れているのだけど、今回のTHE UNITYが個人的に過去イチで好きなコンサートだった。わたしはなんだかんだで、「コンサート」という興行についてはジャニーズのものが飛び抜けておもしろいと思っていて、どうしてもそこと比較してしまう。そうすると、(もちろん本人たちのパフォーマンスに文句があるわけではなく)もっとやりようがあるのでは?と思ってしまうこともあったのだけど、今回はそういう不満が解消されていたように思う。初日はまさしく天井席だったので、しっかり演出が入ってきて楽しかった。センステ近くのアリーナ席からはセンステが高すぎてメンステが全然見えなかったりしたらしいけど。やっぱり特効ががっつり使われてると無条件でうれしくなってしまうからおたくの魂百まで……ということを思った。炎と爆音とギラギラには否応なく反応してしまうし、バカなのかもしれない。コンセプチュアルさを出してきてたり、「オタクが好きなやつ」をずっとやっていたから満足度が高かったのかも。
そもそもメンバーがぐっと「ライブ」がうまくなったというのもあるのかも?としみじみ思った。スキル面はもちろん日々磨かれていっているけれども、それに加えて煽り方とかテンションの上げ方(自分たちの/ファンの)とか、そういう部分がすごくうまくなったように感じた。そういう面をずっと引っ張ってくれているのが中本くんだと思っているので、本当にありがたいよ。
▲VPNをいじらないと見れないけど、2023年末の歌謡祭でのステージを見て本当にライブがうまいなと思った
細かい感想
正直あまり聴き込めていない曲もあったりする状況だったのだけど、コンサートで聴くと、とにかくすべての曲が大好きになる。そもそもイリチルの楽曲派(死語)っていうのもあるし、視覚的な情報が入ってくること・思い出補正……なんかもあるだろうけど、アイドル側の考える「その曲の楽しみ方」を教えてもらえるような感じがして、ぐっと解像度が高まる。この曲ってこういうふうに見せたい曲なのね、というキャプションがついてくるような。
まずは最新曲である〈Be There For Me〉。韓国公演ではECに〈TOUCH〉が入ってたと知ってずるい!と思ったけど(〈TOUCH〉が大好きすぎる)、めちゃくちゃ大切な曲になった。
▲歌詞に明洞とか南山とかの地名が出てくると妙にどきどきする。関ジャニ∞の〈パズル〉を聴いてるときの感覚に似ている
もとから好きなのにさらに大好きになったのは〈Space〉。この曲で踊るテヨンがほんとうに好き。本来ならゆるく乗りながら見たい心地よい曲なのに、目を離したくなくて息すら止めながら見ている。踊る君を見てる。ドンヒョクの"Deeper, deeper"を生で聴きたくて仕方がない。
新たな「好き」が加わったのは〈Fly Away With Me〉。何度でもこのSelf-filmed MVを貼る。
今回はもともとなかったテヨンとマークのラップパートが加わっていて、初日にジョンウも印象的だったと挙げていたけど、テヨンのリリックとパフォーマンスしてるときの表情でたまらない気持ちになる。テヨンパートのリリックについては、テヨン自身がインスタのストーリーにあげていたので引用する。
이 모든게 내겐 어쩌면 신기루가 되겠지 한 줌의 재가 된채로 이 모든게 영원 할 것 같지 않아도 함께 꾸는 꿈이 있기에 버티는 중 그대는 그대가 얼마나 멋진지 아나요 그대가 가지고있는 날개를 펼쳐줘요
함께 꾸는 꿈 또 그 꿈의 끝 그 기쁨을 내게 알려줘요
韓国語タイトルが「蜃気楼」なのに対して歌詞中には実は「蜃気楼」が出てこない、というのがFAWMのずるいところ(これがアイドルという「儚い」いきものの曲である残酷さをちょっと隠しているような気がして)だと思っているのだけど、ここにテヨンのこの詞が来たことで、崩れ去る砂になるほかなかった。蜃気楼のようなこの美しい夢を「わたしたち」は一緒に見ている。永遠には続かない、いつか終わる夢。
崩れ去る砂になるといえば〈Love is a beauty〉のテヨンパート。連想ゲームかて。
I love you, love you
I love you more than you
우리 만남이 잦은 만남은 아니어도 사랑하는 법 사랑받는 법 알려준 네게로 갈 테니 See ya
YOASOBIの〈アイドル〉が爆発的に流行ったじゃないですか。わたしは『推しの子』を見たことがないので曲単体でしか知らないんだけど、好きなアイドルが「嘘」をついてると思ったことって本当にないんだよな〜と改めて思うのだった。舞台上で見せている姿と素の姿はもちろんイコールではないけれど、決してノットイコールでもないというか。この感覚を言葉にするのは難しい。"愛する方法 愛される方法 教えてくれた君…"なんてきれいな歌詞でも、テヨンが歌ったらそれは絶対的にリアルで、フェイクにはなりえないという話がしたかった。
アイドルを好きになる理由は人それぞれあると思うけれど、結局みんな人間の良心とかやさしさのような、「イノセントなもの」が存在すると信じたい……という、そういう祈りが根底にあるのかもしれない。それをアイドルに求めるのはオタク側のエゴの押し付けだしグロテスクな構造だとはわかっていても。名古屋2日目、早朝覚醒した頭で、そういうことを考えた。
ごちゃまぜの備忘録
思い出したときに追記したりする。
- テヨン「おにぎりです」「明太子おにぎりです」悠太「明太子おにぎりの友達です」
- 中本くんいつもありがとう
- 名古屋グルメのアンケート(味噌カツorひつまぶし)をとるイリチル、焼肉が食べたいジョンウ
- ジョンウ「日本に来たらいつもコンビニに行って食べたことのないものを買います」ドヨン「僕はまだ行ってないけど?」
- テヨンとマークがフュージョンしたら悠太が生まれる(金髪3人組)そしてすしざんまいのジャニの95年組
- 体調不良で不参加のドンヒョクのかわりにドンヒョクのあいさつをするジャニ「へちゃにわっとよ〜ん」
- ずっと愛嬌たっぷりのジャニ ジャニのボディメンテない〜(一人称:ジャニ)
- 殺し文句を用意してきたテヨン「付き合ってください」(もうひとつ長めのを用意してたけど不発で途中でやめてしまっていた……)
- 2日目にさっそくドヨンに「付き合ってください」をとられて怒るテヨン、テヨンとドヨンの小競り合いに「いつもこんなんです」(たぶん悠太)
- 曲終わりにも「付き合ってください」って言っててもはや鉄板ギャグに……
- 中本くんによる全方位に配慮されたご挨拶
- 会場の反応を見て「この話あんまりか……」って話を切り上げようとする中本くん
- 中本くんいつも本当にありがとう
- ジェヒョンのゆったりトーク
- ジェヒョン「今日は成人の日だと聞きました。新成人の人いますか?おめでとうございます。新成人じゃない人いますか?おめでとうございます」めっちゃジェヒョン なんでもない日おめでとう
- ジェヒョンはこんなに性格:おっとりさん なのにやばい叫び厨が……
- シャインマスカットを食べているところを見せてくれるひとたち
- 中本くん「良いお年を」←2024年もう明けたかもしれない
- テヨンのおもしろペンサ劇場
- ソバンチャで使ってた銃?をトロッコで使おうとしたけど出なかった?のか解せん……という顔をしていたマーク
- 韓国語の中に日本語の単語を混ぜてあいさつしてるメンバーが数名いたけどこの単語の響きとかが好きなのかな……みたいな ジェヒョン「心」
- Sunny Road終わり、メンステでみんなで輪になって跳ねる127さんたち
- 127さんたちによるカラオケ指南
- ECで花道を走り回ってちょっと疲れているテヨンの姿
- 1日目、ジョンウの印象に残ったパフォーマンスはFAWM、特にテヨンのラップパートで悲しくなる
- 2日目はジャニの印象に残ったパフォーマンスの話だったけどwhite lieかlove is a beautyだった気がする
- 127さんたち「みなさんはwhite lieをついたことはありますか?」
- 2日目のECでやりきれなかったペンサを全部やってくれるジャニ
- Tastyのテヨンピックアップのパートががっつりダンスなのうれしい
- 写真撮影のときに無理な姿勢をとって「早くしてください…」になるテヨン
#NEOCITY_THE_UNITY_JAPAN 名古屋公演が終了しました!
— NCT_OFFICIAL_JP (@NCT_OFFICIAL_JP) 2024年1月8日
名古屋のみなさんにもらったたくさんのエネルギーで、残りのツアーもがんばります💪
みなさん、ありがとうございました!#NCT127 #NEOCITY #NEOCITY_THE_UNITY#NCT127_NEOCITY_THE_UNITY pic.twitter.com/7uoK2Aj7sD
- Be There For Meでみんなジャケット着てるのに着てないテヨン(ジャケット使う振りがある)2日目は着てない人口が増えた
- メンステで座って歌うときにあぐらをかいていたテヨン(1日目だけ)
- マークと悠太の肩を抱くテヨン 金髪トリオ
おたくの現在地
いまのイリチルは確実にグループとして円熟期にある。それを見ていると、「終わり」の足音がどこかから聞こえてくるような気がして怖くなってしまう。実際、このところ出されるコンテンツや作品に「NCT127の総決算」感を見出しては勝手にちょっとしんどくなっていたりする。メンバーやファンの間にそこはかとなく漂っているそういう空気感がどうしても耐えがたかったりもする。
94年生まれのテイルさんの兵役の期限が迫ってきていて、もちろんその後にどんどん他のメンバーも続いていくわけで、完全体で戻ってくるのはいつになるんだろう、そしてそのとき自分はいったいどうしているんだろう? と、自分ごとも重ねながら、不明瞭な未来のことを考えて憂鬱になってしまう。韓国のアイドルグループは、どうしても長年同じかたちで続くことが稀有で、もちろんメンバーの言葉を疑っているわけではないのだけど、その時々で事情ってやつも出てくるわけじゃないですか。いつかやってくる夢の終わりを勝手に想像しては気が塞いでしまう。
今回は本当に最後かもしれない、と覚悟しながら、悔いが残らないようにドームツアーに申し込んだ。結局オーラスだけ取れなかったので、そこは友人と配信を見ようと思います。
外国人がこんなことを言うのはほんとうに無責任だと思うのだけど、兵役がほんとうにほんとうにいやでたまらなくて、名古屋から自宅に戻って、朝方にベッドでおいおい泣いた。単に空白期間ができることが悲しいというだけではなくて、兵役の背景にあるものと、そこに自分の大好きな「やさしいひとたち」が絡めとられてしまうというのがつらくてやるせない。イリチルの現場に行くたびに言ってるけど、やっぱりこの気持ちって選挙に行くとか政治に興味を持つとか、そういう行動に出るくらいでしかどうすることもできない。
雪組 ミュージカル・プレイ 『双曲線上のカルテ』 ~渡辺淳一作「無影燈」より~
@日本青年館ホール
STORY
一流の腕を持つ外科医でありながら、エリートコースを捨て個人病院で働くフェルナンドは、夜勤中でも酒を飲み、数々の女性と浮名を流す異端児であった。孤独な影を秘め、常識にとらわれない行動で病院内に多くの敵を作るフェルナンドだったが、彼なりのやり方で真摯に患者と向き合う姿に、看護師のモニカは次第に恋心を抱くようになっていく。だが、フェルナンドは、ある秘密を抱えていた……。フェルナンドとモニカの恋愛を軸に、真の医療とは、愛とは、そして命とは……という深遠なテーマを真正面から描き出すヒューマンドラマ。
感想
まったくおもしろいと思えなかった……。観ていてこれだけ「無」になることもないなと思いながら観た。イタリアが舞台のはずなのにずうっと昭和時代の日本のかほりがする……と思っていたら、原作は日本が舞台なんだと知って納得。原作を読んでいないのでなんとも言えないけれど、人名や地名をただ置き換えただけなんじゃなかろうか、と疑ってしまうような、ローカライズがうまくいっていなくてちぐはぐになっている印象を受けた。日本が舞台のままでやっていたら、多少は話が入ってきた気がする。
よかったところを探す方が難しい。湖に沈んだあたりの図がきれいだったのと、縣ランベルトがハンサムなのと、かすみちゃんが大好きということしか……。全体的に芝居のトーンをどうしたいのか、というところがよくわからなかったし、作品中で「ただしい」「すばらしい」とされる価値観はわたしは首肯しかねた。ギャグパートとして提示されるところは全部滑っていて不快なだけだったし。樫畑先生の作品をちゃんと観たことがないけれど、石田先生から好きにやってよろしい、と言われてこれだとしたら樫畑先生とも合いそうにないなあと思った。
まず、ストーリー面。ヒロインのモニカに実体がない、ということが脚本上の一番の不満。女が「癒し」か「救い」として存在している世界における理想の結晶としてモニカが描かれている、ということにげんなりしてしまう。フェルナンドは死にゆくチェーザレと自分を重ねて優しく接してあげてほしいと言ったんだろうけど、モニカがチェーザレを抱きしめるのとか本当に嫌だったな。チェーザレの行動は性欲由来ではなく死への恐怖から人のやさしさを求めていた……ということだと理解はしてるけど、看護師にそれを求めることを肯定的に描かないでほしい。モニカに子供ができていることにもすごくゾッとしたのだけど、理想の結晶であるモニカに、さらに母親という属性も乗っける……というのが原因かも。
アニータのエピソードも、「養育費は払わせるべきだろうが」という気持ちでいっぱいになる。養育費を受け取ることは欲深くもないし悪いことでもありません、ってずっと言いたかった。ふたりの過去の恋を嘘にしないためっていうならなおさら養育費を受け取るべきなんだよアントニーオ。
ストーリーもだけど、台詞の不恰好さも気になる。急に説明口調になる感じとか、このキャラクターってそんな風にしゃべるっけ?って感じとかは『夢介千両みやげ』でも思ったから、石田脚本のクセなのかもしれない。急に神の視点みたいなモニカのナレーションが入ったりするのも好みではない。追想だとしても、モニカはそれを知らないのでは……と思うナレーションあった気がする。演劇って小説ほどは人称が固定されていなくて(語り手が存在する場合もあるけど)、どこに視点を置くかを観客が決められる自由さがあると思う。そこにあえて一人称っぽいナレーションを入れるのであれば、もっとこう……。不満が止まらなくなりそうなのでここまでにする。
演出も全然好みじゃなかった。言葉を選ばずに言うと、すごくダサいなと思った。モニカにピンスポが当たってピーン……!というSEがつくところの演出なんかは、本当にダサすぎてひっくり返りそうになった。わざわざつけてるんだからつけたなりの意図はあるんだろうけど、考えることを脳が拒否してしまう。曲も昭和歌謡って感じだし、そこに合わせていくとこうなるのはしょうがないんだろうか。スターに歌わせるためにだけ入ってるような必然性のないナンバーの数々はなんだったのか……。
「死」やそれに類するものの表現って、本当にトートみたいな扮装でしか表せないんだろうか? ということも考えさせられた。他の作品でもときどき見かけるし、ファンサービスとして採用しているのかもしれないけれど、本当にそれでいいんですかね。表現の追求を諦めないでほしいのだけど……でも、これはもうわたしが宝塚鑑賞に向いてないというだけなのかも、と思いはじめた。
個人的に最悪のコンディションで観るはめになったこともあって寛容になれなかった。残念。
宙組 ミュージカル・ロマン 『大逆転裁判』-新・蘇る真実-
@KAAT 神奈川芸術劇場
STORY
弁護士を志す大学生・成歩堂龍ノ介は、最新の司法制度を学ぶ為、明治時代の大日本帝国から万国博覧会を目前に控えた大英帝国への留学を果たす。次々と難事件に巻き込まれていく龍ノ介は、法務助士の寿沙都らと共に依頼人の為に立ち上がるが、そこに世紀の大探偵シャーロック・ホームズが現れ…。「異議あり!」の名台詞から、絶体絶命のピンチを覆していく痛快法廷バトル、この夏、新たな真実が蘇る!
感想
とにかく原作ゲームのファンなので、入場して幕を見たときに宝塚初見のひとみたいな気持ちになった。陪審員として観てるみたい! ってどきどきしながらはしゃいだ。
龍ノ介がバーンと登場した時点でグッときてしまって、これだけでこうなってたらまずいぞ……と思っていたら、プロローグでメインキャラが横並びで出て来たところで感極まって誇張表現でなく涙が出てきて、こんなに「好きな原作が舞台化されたおたくの限界の反応」になることあるんだなと思った。スサトさんとアソウギが踊ってるのとか、そこに龍ノ介が加わって3人で踊るのとか、それだけで嗚咽が漏れそうになったし……限界すぎる。というわけで、あんまり冷静に観られていない。
脚本はすごくゲームの言い回しだなあ、と感じることが多くて、ちゃんと「大逆転裁判」であることは間違いないんだけど、ゲームをオートプレイかRTA動画で見ているようなテンポ感があんまり自分に合わず。特に1幕は説明要素が詰め込まれてる感じがあった。台詞と台詞の間のつなぎがぎこちないというか。自分がゲームをプレイするときに好きにタップする分には前後のパラグラフのつながりも気にしないんだけど、お芝居の脚本に落とすときには流れを大切にしてほしかった。ゲームの要素を取り入れることを優先して表現が単調になっていたり、結果間延び感が出てしまった場面もあったと思う。2.5次元作品なんかで感じるジレンマというか、「メディアミックスになにを求めるか」問題だなあと思った。
キャラクターのモーションもかなり再現されていて、ゲームちっくな芝居(しかも逆裁シリーズは誇張/過剰表現が多いし)と宝塚の過剰さは親和性が高いんだなと思った。けど、ここはちょっとハマってないな〜と思うところもあったから塩梅が難しい……。
龍ノ介とスサトさんの恋愛要素は正直いらなかったかな……。龍スサパートになると途端に知らないキャラになるというか。龍ノ介/スサトさんはそんなこと言わない/やらない! って思ってしまって、よくない原作オタク仕草だなと思いつつ……。恋愛要素が入ることで、スサトさんの「能力や知識的にはものすごく優秀なのに女性というだけで弁護士として法廷に立てない人」という立場が軽んじられているように見えたのが嫌だったのかも。その立場を理解したうえで尊重するアソウギ、そこはあんまり意識してないものの固定観念にとらわれていない龍ノ介、という3人のバランスが「大逆転裁判」を愛する理由のひとつなので、恋愛要素よりも3人での場面が欲しかった。もちろん、アソウギと龍ノ介の親友コンビの絆も好きなんだけど、アソウギとスサトさんの関係性も含めて優劣のつけられない絆だと思ってるから。アソウギのエピソードを入れ込むのは難儀なのはわかっていますが。
最後に英国が選ぶ、「間違えたことはきちんと見直して、反省して、『ただしい』道を選んでいくことで平和を実現する」という選択は、いまの世界情勢(もちろん国内情勢に関しても)に対してのメッセージとして受け取れてよかったなと思う。
ミュージカル『スクールオブロック』
@東京建物Brilliaホール
CAST
柿澤/梶/宮澤/コード
柿澤/太田/はいだ/コード
STORY
アマチュアロックバンドのギタリストのデューイ(西川貴教/柿澤勇人)は心からロックを愛する男だったが、その熱すぎる情熱と勝手なパフォーマンスが原因でバンドをクビになってしまう。友人ネッド(梶 裕貴/太田基裕)のアパートに居候しているデューイだが、貧乏で家賃すら払えず、ネッドの恋人パティ(はいだしょうこ/宮澤佐江)と喧嘩し住む場所も無くなりそうな最悪な状況に。そんな時、ネッドに私立学校の臨時教師の話が舞い込み、仕事が欲しかったデューイはネッドになりすまして名門ホレス・グリーン学院へと向かう。
厳格なロザリー校長(濱田めぐみ)のもとエリート進学校として名高いホレス・グリーン学院だが、デューイは厳格な規律の多い学校で過ごす子供たちが無気力な事に気がつき、さらに担任したクラスの子供たちに音楽の才能があることも見つけ、子供たちとバンドを組んでバンドバトルに出場することを思いつく。そして、学校や親に気づかれぬよう、授業と称して子供たちにロックのあらゆることを教え始める。クラシックしか耳にしたことがないような生徒たちは、最初は困惑していたが、やがてデューイの陽気な人柄やロックの開放感、ありのままの自分を認めてくれるデューイに魅力を感じはじめ、一緒にバンドバトルを目指して猛練習を始める。ある日、デューイが偽物教師だということがバレてしまうが、デューイとのロックを通し変わり始める子ども達の変化は、周囲の大人たちをも変えていくことになる。
感想
家を出る前に改めて券面を見たら、チケット代14,500円!? と二度見してしまった。もう、大きめの興行のチケット代に二の足を踏むようになってしまった。貧しい……。
上演前・幕間・終演後の場内撮影とカテコの撮影がOKだけど、撮影媒体はスマートフォンに限るというのが不思議なレギュレーションだなと思った。カテコ撮影OKの合図のときに柿澤さんが一眼だと毛穴とかうつっちゃうから〜みたいなことを言ってたけれど、本当はどういう理由なんだろう。機材を揃えて撮られると闇写的な商売が出てくる……とかしか思いつかないけど、きょうびスマホの画質もなめられないよな?とか余計なことを考えてしまった。上演前のスクリーンは正直ださいんだけど、BlurとかThe WhoとかThe Smithの名前が浮かび上がったときはさすがに撮った。
ストーリーはけっこう古典的、というのが悪ければ王道で、デューイのキャラクター造形を含めて少し古さも感じたけど(映画は20年前、舞台化も10年前とかなので、そこは納得する)、問答無用の音楽の楽しさが勝ってしまう。子役のエネルギーと演奏に圧倒されるし。わたしはほんの一部しかわからなかったけれど、ロックミュージックへのオマージュが散りばめられてたりしていて、しっかりとロックを知っていたらもっともっと楽しいだろうなと思った。MR!もそうだったように、椅子に座っておとなしく観ているとむずむずしてくるようなミュージカルだった。こちらを観客としてあつかう演出もあったから余計に、本来立ち上がって歓声をあげて観るものだなあと思った。
デューイのやり方や考えを全面的に支持することはできないけれど、「自分たちの〈怒り〉を解放しろ」というメッセージは響いてくる。各家庭の問題やデューイ自身の問題がころっと解決して大団円になる……という、決して細やかとは言えないストーリーも、とはいえグッとくるよねえと思ってしまうというのはつまり、作品を通して「ロックンロールの魔法」を体感できるようになっているというのがこの作品の意図であり、最大の魅力ということなんだろうなと思った。
『ハルシオン・デイズ』が好きではなかった、かつ、それはないだろう……という価値観の作品だったから、鴻上さんに対して構えていたし、今作で鴻上さんへの評価が変わった、というわけではない。劇中にゲイの夫夫(と思われる)が出てくるけれど、『ハルシオン〜』のゲイ表象がよぎって渋い顔になってしまった。個人的に、スクリーンに映像をうつして背景をつくっていると、もうそれだけで萎えてしまうくらい映像演出が苦手。白っぽいのっぺりした映像が出てくるのが問答無用でださいと思ってしまう。場転が結構あるからかもしれないけれど、デューイの部屋のポスターなんかは紙の質感で見たかったなあと。
縦長の劇場なのに縦には使わないんだな〜と思った。セットなんかはがっつり上まで作ってあったけど、人が縦に移動することはないので、空間を持て余しているような気もした。
今回のプロダクションだと、劇中がいつ設定なのかというところは少し気になった。「スマホを勝手に見るな!」という台詞も入っているから現代っぽいけど……まあそこまで気にしながら観るものでもないかも。「ロックンロールは反体制の精神」という、作品をつらぬく思想が2023年の日本ではもう「そうではない」な、ということを考えてしまうから気になってしまうのかな。反体制と結びつく音楽ってヒップホップのがしっくりくる。
ロイドウェバーの天の声で幕開きなのがちょっと面白くて、BWでもそうなのかな? と思って調べたら、なんなら本人が登場して口上を述べてた……と書いてあるブログを見つけて笑ってしまった。面白作曲家ロイドウェバーおいたん。♪ If Only You Would Listenみたいな曲を好きになってしまうよロイドウェバー。
もっくんネッドがいちばんおもしろい。もっくんってスタイルもよくてかっこいいのに、こういう役どころが本当にぴったりはまってておもしろい。そういえばこのひとギャ男だったということを思い出しました。
NCT STADIUM LIVE 'NCT NATION:To The World-in Japan'
超・私的感情総括
NCTに対する熱量はおだやかにゆるやかに続いているという感じだったし、イリチルの単独じゃないし、屋根のない会場での長時間ライブに耐えられる自信がないし、という理由で今回はひと公演のみの参加。終わってみると本当に楽しくて、もっとちゃんと行っておけばよかったかな? と一瞬思ったのだけど、複数公演入っていたらどこかで体調を崩していただろうなというハードさだったのでいい判断だったと思う。東京公演1日目は個人的な事情で立ってられない座ってられない歩行も不可能! みたいな状況だったので(この話も同じ状況に陥った人のためにいつか残しておきたいんだけど……病気ではあるけど重病とかではないのであしからず)チケットをとったのが2日目でよかった……と心から思った。
とにかく楽しかった! という話はいくらしてもし尽くせないから詳しい感想は割愛するとして(わたしが入った公演はU-NEXTで配信されているし!)、Misfitの盛り上がりを現場で体感できたこと、PADOのテヨンのパフォーマンスをちゃんと見られたことが自分の生涯にわたる財産になったと思う。これからの人生何度もふいに思い出してまた抱きしめることになるであろう宝物みたいな記憶がまた増えたことがうれしい。こういうことの蓄積で人間は豊かになるんだと信じているのです。
席がステージ構成的に不安しかないアリーナ後方で、ステージが全く見えない可能性も覚悟していたので、近い方のサイドステージ(上手)でテヨンがPADOをパフォーマンスしてくれたのが本当にうれしかった。メンバーも言っていたようにPADOのコレオはすごくテヨンに合っていて、絶対にしっかり見たいと思っていたパフォーマンスだったから、その一曲がいちばんストレスなく見られる状況だったのは不幸中の幸いだった。噛み締めながら、見逃しのないように見た。
誰かと比較して、という話ではなく、自分の中ではいちばんかっこよくてかわいくてやさしくて輝いているのがテヨンだなという思いをあらたにした。現場のたびに思ってるし、この数年のあいだその気持ちが色褪せることがないから、やっぱりここがアイドルを推す自我の「終の住処」なんだろうか……と不思議な気持ちになる。ECでトロッコに乗って、ときおりファンサービスをしながらもしみじみと客席を眺めていたテヨンの表情が焼きついている。この人はこうやって愛にあふれた目でわたしたちを見てくれるんだから(もちろんわたしの主観でしかないのだが)わたしも愛で返さないと仁義が廃るなと思うのだった。人間が最後まで諦めてはならないものは愛とやさしさなんですねえ。
初めてテヨンを生で見た2019年のファンミーティングのときに、《眠っている小さな王子さまを見て、こんなに胸がいっぱいになるのは、王子さまに、一輪の花への誠実さがあるからだ。王子さまのなかで、眠っていてもなおランプの炎のように光を放っているのは、そのバラの花の面影なんだ》という『星の王子さま』の一節が自分ごととして入ってきて、それ以来わたしの中でテヨンをあらわす一節だと思っている。あのときから4年の月日が流れて、多かれ少なかれ変わったところもあるだろうに、やっぱり思い浮かんでくるのはこの一節だった。ただ、「胸がいっぱいに」なった結果、「傷つくことがないように真綿にくるまれてほしい」と庇護欲という名の傲慢な願いを爆発させていた2019年から、「もらった愛とやさしさをわたしも返していきたい」というところに行き着いたのは目に見えた(自分自身の)成長なんじゃないかと思う。テヨンに……というだけでなくて、もっとひろい意味で愛とやさしさを還元していきたいよね、という。行動の指針にまで影響を及ぼす(しかもはたちをとうに越えた大人が、である)って相当なパワーで、「わたしの人生を変えた人」リストがあったら確実にリストインしてくるね。イリチル単コンを切実に待っています。
他メンバーについて、これだけは書いておきたいので書いておく。テンさんのパフォーマンスが最高で、ダンスの神の化身が舞い降りたのかと思った。テテンが好きなのわかりやすいよね本当に……。全然ちがうスタイルで踊るのに似たオーラがあるふたりだと思う。
記録
準備したもの
夏のスタジアム公演ということで、念には念をといろいろ準備していったので備忘録。前述の通り個人的な事情で公演の少し前までバタバタしていて、前日〜当日朝くらいに急遽準備したものも多かったので、もうちょっとなんとかなったかなあと思う。
鑑賞編
防振双眼鏡
普段づかい(劇場でお芝居を観るとき用)の双眼鏡はビクセンのアリーナM6×21という6倍の低倍率の双眼鏡。京セラドームのビスタからでもこの双眼鏡でまあまあ満足できたような人間とはいえ、今回はさすがに厳しいだろうということで、初めて防振を持っていくことにした。といってもなかなか使う機会のないものなので購入せず、レンタルを利用。今回レンタルした防振双眼鏡はケンコー 防振双眼鏡 VC スマート 14×30。「ゲオあれこれレンタル」の3泊4日レンタルで5,380円。
正直、アリーナ後方からだとそもそもステージがうまく見えない可能性もあるし……と少し迷ったけど、持っていって大正解だった。これがなかったら満足度は天地の差だったと思う。Hブロックという後方も後方のブロックだったけど、ピントが合いさえすれば綺麗に見えた。ただものすごく重いので、全編双眼鏡で見るのは絶対に無理だし、とにかく首がこるのが難点。
スポーツサンダル
普通の靴じゃ耐えられなさそうだな、と思って当日朝に駆けずり回って探し出した。この時期になるともうほとんどサンダルを売っていなかったのでデザイン性などは妥協せざるをえなかったけど、そのかわりに半額以下で買えた。適当に買ったやつだったけどあってよかった。足の裏がだいぶ楽。
かばん
当日朝に偶然寄ったスタンダードプロダクツの肩掛けサイズのやつ。普段づかいの鞄だと万が一雨が降ったときに困るので、濡れても大丈夫そうで上部がファスナーで閉まるものを選んだ。一応保冷バッグらしいけど、保冷機能がどうなのかは不明。備えすぎて荷物が多くなったのでちょうどいいサイズだった。安いし汚れてもいいやと思えたのもよい点。
水分補給編
保冷バッグ
ペットボトルと保冷剤を入れておく用のを100均で。保冷機能がどうなのかは不明。水のペットボトルは現地まわりでは買えない/買うのに時間がかかることを見越して3本持って行った。100均のワンタッチ開閉式のストローキャップに付け替えておいたので、ライブ中の水分補給がしやすかった。本来凍らせておくべきところだけど、当日に買ったから全部液体の状態で持っていった。保冷剤と一緒に入れておいたけど、そこまで冷たさは保てなかったかな。結局消費したのは2本だけだったけど(1本は友達にあげた)、飛田給〜味スタ間を歩くことなくスムーズに行き帰りできたのもあると思うから、たぶん3本くらい持っておく方が安心。水を2本分飲んで5〜6時間はお手洗いに行ってないのに全く尿意を感じなかったことにあとから気づいてぞっとした。油断大敵。
男梅キャンディ
塩分を補給できるように。塩タブレットが売ってなかったので、かろうじてあったこれを。
暑さ対策編
汗拭きシート
冷感系のやつ。VCRのときとか、あいまあいまにサッと拭いてた。正直汗をかいてる感覚はあんまりなかったんだけど、身体がびっくりするくらいべとついていたので、汗拭きシートがなかったらけっこうしんどかったかも。
ハンディファン
これもあいまあいまに使うことがあった。夜になってからはわりと風も吹いてたけど、やっぱり前後左右に人がいるから、ハンディファンで風を作ってあてるだけでもかなり快適度があがった。
日傘
普段づかいのWpc.IZAの折りたたみ傘を持っていった。平べったいからマチのないかばんにも入って普段から重宝しています。使ったのはバス待ちのときとバス停〜会場入り口までぐらいだけど、スタンドの一部は開演までずっと日が照っていたので、日傘がないと暑かろう……と思いながら眺めていた。
雨対策編
雨ガッパ
予報的にも降りはしないだろうと思っていたものの、天候に絶対はないし、万一降ったときにアリーナだとひとたまりもないので持っていきたい、でもかさばるのも……と悩んでいたところに見つけたのがセリアの携帯用コンパクトレインポンチョ。手のひらサイズなのでかさばらない。ただしふつうの雨ガッパと比べて薄くて小さいので、絶対に降る日には持っていけない感じ。使う機会がなくてよかった。普段づかいのかばんに入れても邪魔にならないから入れておこうと思う。
会場までの行き帰り
飛田給駅〜味スタを徒歩で行くとなると時間がかかりそう、という懸念があったので、調布駅で降りて臨時の直通バスに乗ることに。バス停は想像以上に並んでいたので、飛田給から歩きの方がよかったか……?と迷ったけど、無事に間に合ったし、バスの窓から見えた歩きの人たちの混雑具合は見てるだけで具合が悪くなったので正解だったと思う。
体感では行列のわりにさくさく進んだ印象だったけど、15:45くらいから並びはじめて16:05くらいに乗れたから、だいたい20分くらいは並んでいたらしい。友人としゃべりながらだったから気にならなかったけど、ひとりだとちょっと長く感じるかも。バスで会場まで20分弱くらいで着いて、余裕でオープニングアクトを待つことができるくらいの時間だった。わたしたちはグッズを買わない・会場ではお手洗いにも行かない・フラッグを探して写真を撮ったりもしない、という最低限のことしかしないスタイルだったから余裕だったけど、会場でいろいろやりたい人は+1〜2時間はみて動かないと難しそう。
帰りは規制退場に捕まると遅くまで出られないブロックというのもあり、泣く泣くメント前で退場してバスで調布駅に向かった。ほぼ待ちなしくらいのスムーズさで乗れたので、ご飯を食べてコーヒーを飲んで終電より前に帰るほどの余裕があった。ただ、これはU-NEXTでのディレイ配信が見られるという前提があったからこそ下せた苦渋の選択なので、本来なら最後までいたかったよ! とは思う。というわけで、ここから先は会場やステージ構成やさまざまなことに文句を言います。
文句のパート
これまでのイリチル単コンやSMTOWNでも思ったことだけど、コンサートのステージ構成がプロの仕事とは思えない。これまではとにかく死角が多すぎるという感じだったけど、今回はそれ以前の問題で、ステージはメインステージとサブステージ(中腹くらいにあって上下に分かれている)のみ、トロッコはEC以外はメイン〜サブの間を移動するのみ、って、スタジアム規模で一律同額を取っておいてやることではないと思った。
アリーナ後方だと人の頭が被ってメインステージもほぼ見えないのでは……というのが不安だったのだけど、人の頭の隙間から防振で除くことでことなきをえた。もちろん人の合間から見ることになるので、背の低い人だったり前列の人の鑑賞スタイルによっては厳しい場合もあったかもしれないけど、163cmくらいの平均〜少し高めくらいの身長ならある程度は、という感じ。
これはその人の鑑賞スタイルによるかもしれないけど、わたしはアイドルの無編集のパフォーマンスを自分の目で見るためにコンサートに行っているから、会場に来てまでモニターを見る意味ってなに?と思ってしまうタイプで、今回みたいな複数グループの合同コンサートは許容できるけど、単コンだったら耐えられないかも。
とはいえ、ステージ構成への不満はいったんコンサートが始まってしまえばアイドルたち本人のエネルギーの大きさやセットリストの楽しさで吹き飛んでしまうのでまあいいとして(よくはないが)、最大の問題は音響なわけですよ。最初から最後まで音響が最悪で、歌を聴かせるべきバラードナンバーなんかはこんなの敬意がないじゃんか、と思って悲しくなった。Misfitもすごく楽しかったけどラップは全然聞こえなかったし。メントが全然聞き取れなかったのもつらかった。最後まで残ってたとしても聞き取れなかった可能性があるな……。
メントといえば、イリチルの中MCのときにテヨンが少し間違った日本語を使ったら(おそらく「かわいい」という意味で)笑う観客がいて、それに対してテヨンがなぜ笑うのか、と問い返してきたところで本当に悲しくて申し訳なくてつらくなってしまったのだった。メンバーの日本語がなかなか出てこないときや、伝わりづらい間違いをしたときにだけすっと助け舟を出していたゆうたの姿を思い出して、相手への尊重や思いやりとはそういうことではないのだろうか……と思った。これだけ人がいれば仕方ないんだけど、他のファンと思想やノリが合わない場合、SNSなら対策のしようがあるけど、現地だと目や耳に入ってきてしまうのがつらいところ。アンコール待ちなどで客席のうちわやカンペを映す時間がそもそも苦手なんだけど、そんな言葉をアイドル本人にぶつけないでほしい、と思うような(作った本人はたぶん「面白い」大喜利の回答だと思っていると思うけど)ものが映ったりして、こういうのを強制的に見せられるのは負担だなあ。
文句で終わるんかい、という感じなので、最後にご機嫌な話をして終わりましょう。連番していた友人がジェヒョンのフリスビーを獲得しました。縁起物として、逆さ福のように飾っておくように言っておきました。現場からは以上です。
東北3県どたばた旅行記
1泊2日で秋田・青森・宮城の3県をまたぐ旅行をしてきたので記録する。どんな旅程? って感じだけど、2日間で移動時間が6時間以上あったし、それ以外もほとんどずっと歩き通しのかなりタフな旅だった。なお、旅費を安くすますTIPSや東北のお役立ち情報はこのエントリの中にはない。学べるとしたら、ノリと勢いで進めるとこれだけ大変なことになってしまいますよという教訓だけなのであしからず。
経緯
M-1ツアー
過去に何度か「宝塚の全国ツアーにかこつけて地方を観光する」という催しを一緒にやっている友人2人と、今年はM-1ツアーを観に秋田に行こう、ということになった。友人のひとりはもともとお笑いにハマっていたが、今年からわたしも急にハマりだしたためお笑い勢力が過半数を超え、残りの友人も「M-1ツアーは新トップコンビのお披露目みたいなもの」という誘い文句により、ふたつ返事で秋田行きが決定した。それでなくともノリと勢いだけはある我々である。M-1ツアーが土曜日開催だったので、せっかくだから1泊2日で観光しようということになった。
問題発生、ねぶたとの出会い
ここで問題が発生する。秋田のホテルが全然とれない。ようやく空きが見つかってもとんでもない値段の部屋しかない。絶対数が少ないのか、ないしは昨今のホテル代高騰の波がここまで……? と思っていたが、M-1ツアーの日程が秋田の竿燈まつりの開催時期に被っているということが判明。それならせっかくだし隣県に足をのばしてみてもいいかも、ということで向かうべき東北の県を吟味しているところに、我々は出会ってしまう。そう、ねぶた祭に。ねぶた祭は言わずと知れた青森のお祭りだが、我々が東北に滞在する期間こそまさにねぶた期間だったのである。
ねぶたの魅力に取り憑かれた我々は「絶対にねぶたが見たい」という気持ちを第一に、青森に宿を取ることを決めた。が、やはり宿は軒並み埋まっている。一縷の望みをかけたあおもり健康ランドの宿泊予約にも惨敗。そうこうしているうちにキャンセルが出たのか、なんとかホテルを見つけて事なきを得た。
青森からの飛行機代も高騰していたので(決めたのが直前だったのもある)どうせだから仙台で牛タンも食べて帰るか、ということで、秋田→青森→宮城の3県またぎどたばたツアーと相成った。無計画に建てて増築を繰り返した家みたいな感じです。
移動手段と宿
東北間の移動や東京発着の新幹線は計画的にとれば「えきねっとトクだ値」でもっと安く買えるが、今回は無計画に決めた&お祭り需要で席が埋まっており、ほぼ割引が使えなかったのであまり安くなっていない。ここには書かないけど、街を移動するときはタクシーを利用することも多かったので、それもかかっている……。改めて交通費を振り返ると高くて涙が出る。
東京(羽田)→秋田:10,000円
ANAのスーパーバリュー75Kで。秋田行きは早いうちに決まっていたので、すぐに安い航空券を押さえておいた(復路も押さえていたがキャンセルした)。ただし朝早い便だったので不安になり、羽田に近いところで前泊したので宿代が余分にかかっている。そうすると新幹線を割引でとった方が安いが、所要時間を考えれば飛行機の方が良かった……はず。45分くらいで着く。
秋田空港と秋田駅はかなり離れていて、リムジンバス(予約不要)で40分くらい。秋田空港のまわりにはあまりなにもないので、ささっとリムジンバスに乗るのが吉。
秋田→青森:4,700円
「えきねっとトクだ値」でちょっとだけ割引入っているはず。特急つがるで3時間弱。コンセントがなくて充電できないので要注意。
新青森→仙台:11,500円
東北新幹線で2時間弱くらい。いろいろあって寝るのが遅くなったのと朝イチだったのとで、ここではさすがにうとうと。
宿(青森):15,000円
朝食つき。駅近でもなんでもないビジネスホテルなのにこの値段は割高だが、この期間は東北三大祭りが一斉に開催されていて、かなり計画的に宿をとらないと空きがない&お祭り価格で高騰しているらしく、これくらい出さないと泊まれないらしい……。ついでにaikoも東北でライブをしていた。そりゃとれないわけだ。
仙台→東京:11,000円
東北新幹線で2時間くらい。
旅行記
1日目
秋田
9:00
秋田空港着。この時点でかなり暑くて嫌な予感がしていたが、見事に的中。とにかく暑かった。
10:00
秋田駅着。M-1ツアーまで少し時間があったので朝食を兼ねて駅前の「ナガハマコーヒー」へ。秋田発のローカルコーヒーチェーンで、秋田と盛岡にしか店舗がないらしい。おいしかったしメニューも豊富なので、近場にあったら通っちゃうと思う。
11:00
ミルハスに向かう途中、にぎわい広場で昼竿燈をちらっと見る。妙技大会といって、チーム戦で点数を競い合う大会らしい。おでこに竿燈を乗せる技すごい! と思ってたけど「腰」と呼ばれる技がいちばん難しいらしい。
ババヘラソフトを食べる。よそってくれたおばあちゃんが「こういうのは上から撮らないと」と言っていたので上から撮った。黄色い部分はなんの味なんだろうと思ったらバナナ味! けっこうやわらかくて溶けやすいので急いで食べながらミルハスへ。
11:30
M-1ツアーを観る。ミルハスは新しくて立派な劇場でした。ダイヤモンドが雑誌の発売日を教えてくれるネタの宝塚バージョンを友人と勝手に作って遊んでいたので(「『歌劇』は?」「毎月5日」)ダイヤモンドのネタの入りを聞いて顔を見合わせて喜んでしまった。
ぴろの俺様クレイジーマンが見れたのもうれしいよネ……! とか「笑クラ」みたいなことを思ったけど、自分がまたハマって半年くらいなことを思い出して不思議な気持ちになる。宝塚にはハマって半年くらいの気持ちなのにお笑いは2年くらい見てるような気がする。現場数と入ってくる情報量が多いんだよね。
13:30
お昼に入ろうとするも行く先々で行列していたので、いったん千秋公園の秋田犬ふれあいコーナーへ。暑すぎたのではちみつソフトを食べる。氷菓ばかり食べすぎ。肝心の秋田犬は体調管理のために見学のみだったけど、秋田犬たちもぐったりしていてかわいそうになってしまった。休ませてあげたい……。わたしも休みたいし……。秋田犬は想像以上にでっかくてかっこいいいぬだ。
14:30
行列していたのもあるけれど、チェーンじゃないお店だとランチとディナーの間の休憩に入ってしまってそもそも営業していないところも多く、食いっぱぐれるかも? と焦りはじめたところに、ようやく入れた「弥助そば」。秋田なのにうどんじゃなくてそばなのかよ、という感じなんだけど、ここも江戸時代から続く秋田のお店なので……。あとからSNS見たら芸人もここで食べてたし。郷土料理もいろいろあったけど、シンプルに天ぷらそばにした。
森下さんと平井さんと秋田満喫🏮 pic.twitter.com/SvRYqBjRvd
— ストレッチーズ福島 (@fukushimatoshi) 2023年8月5日
15:30
秋田土産としてトンツカタン櫻田(秋田出身)がおすすめしていた銘菓・金萬を買った。革命!みたいな美味しさではないんだけどあったかいお茶とかコーヒーには合いそう。そして青森へ移動。3時間もなにを? と思われるかもしれないけど、我々は宝塚版『鎌倉殿の13人』のキャスティング会議を開いていたので問題ありません。参考資料の『おとめ』を見ていたら朝水さんの髪型が独自路線で笑顔になった。大好きすぎる。朝水さんには全成を任せたいよ。
青森
19:00
青森駅着。いったん荷物を置きにホテルに向かおうとタクシーに乗り込むも、道が混みすぎていたので引き返してそのままねぶた祭へ。荷物はロッカーに預けた。空いててよかった……。ハネト(山車のまわりで盛り上がるひとたち)が4年ぶりに復活するというのもあったのかかなりの盛況&熱量で最初は圧倒されたけれど、場所によってはのんびり見られる場所もあった。小さめのスポンサーねぶたはなんでもありでそれも楽しかったし(『呪術廻戦』のねぶたもあった)、メインのねぶたは生で見たときの迫力が段違いだった。歌舞伎の場面や神仏といったパワーや動きのある題材が描かれていたのだけど、曲がり角で進行方向を変えるときの猛々しい動きが、まるでねぶたが生きているようで見ものだった。単純に和製エレクトリカルパレード(という表現が正しいのかはわからないが)的な楽しさもある。途中からは「宝塚ねぶた」の構想で盛り上がった。エリザベートねぶた(「最後のダンス」の場面)のハネトにはトートダンサーの格好をしてもらうんや。
20:30
屋台であんまり食べられなかったので、海鮮が食べられるお店を探して、ようやく入れたところが大当たりだった。この旅のハイライトかもしれない。とにかく美味しいのに安い! わたしは生ものが得意ではないんだけど、ここの生うにはまったく臭みがなくて本当に美味しい。美味しすぎてみんなで咽び泣きながらおかわりした。近くに住んでたら絶対通ってる。満足いくまで飲み食いしたのにひとり3,000円ちょいしかしなかった。青森に住もうかな?と思いはじめる。
23:00
青森駅前からタクシーでホテルに向かおうとするも、タクシー乗り場の行列となかなか来ないタクシーに、このまま待っていたら夜が明けるのでは? と心がぽっきりと折れて泣きそうになり、青森に住もうかなという気持ちをキャンセルする。途中で流しのタクシーが捕まえられるかもしれないし……と途切れそうな一縷の望みを胸に、とりあえずホテルまで歩きはじめる。なお、歩きだと1時間かかる距離である。翌朝が早いこともあいまってとにかくこのときの絶望感が強く、歩きはじめて数分でタクシーの行灯が見えたときは、砂漠でオアシスを見つけたときってこんな感じなんだ……!と感動した。ハイローで鬼邪高校のトラック来たときとかもこんな感じなのかな。とにかく感動した。本当に……感動した。
23:30
ホテルに到着。翌朝も駅までタクシーで向かう予定だったのでフロントで手配を頼めるか聞いたところ、ねぶた関連で埋まってしまっていて5時台から10時台までタクシーの予約はできない、と告げられて再度絶望の底に突き落とされる。砂漠でオアシスを見つけたと思ったら蜃気楼だったときの気持ちってこんな感じなのかな……って。見果てぬ夢届かぬ恋すべては蜃気楼……って♪ENDLESS DREAMを歌いそうになった。蜃気楼と書いてタクシーと読む。バスに乗れば間に合いそう、ということで一段落したけど、自分の情緒の振れ幅がひどくて、そのたびに楽しかった記憶が遠くなっていく。あんなに美味しかったうにが遠い。どっと疲れて即就寝。
2日目
青森
6:00
朝食会場でかかっていたNHKの時代劇に矢崎広と早乙女太一が出ていて、ふたりとも雪組だよねみたいな話になる。朝食をささっと済ませてバス停へ。
7:30
青森から仙台へ移動。さすがにちょっと寝た。仙台城に行くことになっていたので付近の情報を調べていたら『伊達ロマネスク』という謎のショーを発見する。即見に行くことに決まる。こういうのはスピードが大事だってライラックで言ってたから。
宮城
9:30
仙台駅でお土産を買ったりずんだシェイクを飲んだりする。なんだかんだで初めて飲んだけどすごい不思議な味だ……。えだまめの食感はあるけどほぼミルクの味のような気もする。バスで仙台城に向かおうとするも、バス乗り場の行列を見て、諦めてタクシーに乗る。タクシーの運転手がいろいろ教えてくれるおじいちゃんだったが、なかなか聞き取るのが難儀で困った。小田和正が東北大学出身、という話を聞いて開いた小田和正のWikipediaの来歴の記述がなかなか興味深かった。
11:00
仙台城で伊達政宗の像と写真を撮る。地域おこし隊的な武将がいたんだけど、ツーショットを撮るときのかけ声が「ずんだもち」で、そういうのもありなんだ……と思った。
仙台緑彩館で『伊達ロマネスク』を見る。ショーが始まる前にやっていた剣術指南の先生がピアノ刀侍っぽくて勝手に盛り上がる。ショーの内容はまあ予想通りな感じだったけど、伊達政宗役の人がちゃんと真ん中の演技をしていたので「伊達政宗のお披露目公演だな」と思った。
13:00
目当ての牛タン屋が定休日で、急遽向かった別の店舗も行列で、帰りの時間に間に合わなさそうだったので泣く泣く諦める。地下鉄で駅に向かい、適当な牛タン屋でお弁当をこしらえてもらう。振り返ってみると、この旅で電車に乗ったのはここが最初で最後だった。地方を好きに動くとなると車がないと厳しいな……。かわりに入れる飲食店を探したものの軒並み並んでいて、最終的にささかまのお店「鐘崎屋」のバーカウンターに落ち着く。あら汁が沁みる。
なんでこんなに混んでたんだろう。やっぱり仙台も七夕まつりをやっていたからなんだろうか……。奇しくも東北三大祭りを全制覇してしまった。
15:00
仙台から東京へ。家に着いたころには疲れすぎて、そのままお風呂に入ってすぐに寝た。
振り返ってみて改めて、行き当たりばったりすぎたなと思った……。あと、単純に体力が足りない。特に暑い日だったのもあるけど、2日目の途中からは完全にエネルギーが切れてしまってたし。体力つけなきゃなと思うと同時に、今後どんどん体力がなくなっていくんだからいまのうちにいろいろ行っとかないとなと思った。とにかく疲れすぎたけど、東北は楽しいところだった。次はお祭りをやっていない平熱の東北にも行きたいものです。
再考・舞台「Being at home with Claude-クロードと一緒に-」2023
2023年版初見時感情の赴くままに書いた感想はこちら。
もう一度観て、衝動的な感想やメモ書きはアウトプットしたので、もう少し冷静になってこの作品のことを考えてみようと思う。
この戯曲を、日本人が一度観ただけで隅々まで理解するのは(よっぽど1960年代のモントリオールの風景を身にしみて知っている人でなければ)正直言って不可能であると思う。イーヴと刑事が絶え間なく飛び交わす膨大な台詞には次々に固有名詞が登場し(しかもひとつひとつに文脈があり)、言外にもモントリオールという都市の複雑な背景が織り込まれている。テキストでじっくり時間をかけて読んだとしても、確実になにかを取りこぼすだろう。わたしもまだまだわからないことだらけだ。ただでさえ、耳で聞いて、そのまま覚えたり考えたりすることがすごく苦手なんだから。言葉を聞いても、少しでも気を抜くとただの音として処理されてしまう。聞いた言葉を一度書いて、目で見て、ようやく考えることができるのだ。つくづく演劇というメディア向きでない処理の仕方だなと思う。
だからまずとっかかりになるのは、イーヴに対する刑事の差別的なまなざしとそれによる相互不理解が繰り広げられる前半、イーヴとクロードの愛の物語が綴られつつ前半のまなざしを塗り替えてゆく後半(終盤?)という、時代や地域を置き換えてもある程度成立する物語なのだと思う。もちろん、すべての根幹にはモントリオールの歴史が深くかかわっている(と思われる)のだが、細かい固有名詞や背景を見落としたとしても、この物語の輪郭を掴むことはできる。そしてその次の段階、「なぜ」を考えようとしたとき、圧倒的な知識不足の壁にぶつかるのである。付け焼き刃ながらも、調べたことをもとに『クロード』を考えてみたい。
*
クロードがイーヴに読んでくれたポール・クローデルは、「自由ケベック万歳(Viva le Québec libre)」を叫んだシャルル・ド・ゴールと親交があったという。今回の演出では小道具がステージまわりに置いてあったから、どの作品を読んでいたのか帰りに確認しておけばよかった。イーヴにとってはクロードが読んでくれることこそが重要で、それがキャロットケーキのレシピだとしてもよかったのだから、作品名はたいして重要な情報ではないのだが、クロードのことを知る手がかりにはなったかもしれないなと(まあ戯曲内で明かされていないのであればあくまで今回の演出家によるいち解釈にすぎないが……)。
「自由ケベック万歳」が叫ばれたのは、まさに『クロード』の劇中で開催されているモントリオール万国博覧会の最中である。劇中時間の7月5日からほどない7月24日*1におこなわれたド・ゴールの演説は、ケベックの独立運動に大きな影響を及ぼしたという。
▲当時の映像
▲直接的には関係ないが当時万博を観に行った人の記録
そもそもケベックにおける1960年代というのは、「静かな革命」による〈ケベック人としての自覚・主体性〉の目覚め、独立運動の隆盛……と、目まぐるしく変化した時代だったらしい。クロードが仲間たちと独立運動に参加していた、という言及からすると、クロードはいわゆる「ケベコワ」と呼ばれるようなフランス系カナダ人だったのだろうと推測できる。
これらの格差を是正する運動が起こり、それは次第に「静かな革命」(La Révolution Tranquille)と呼ばれた。そのきっかけは1960年におけるデュプレシ政権からルサージュ(Jean Lesage)政権への交代である。ルサージュ政権はカトリック教会が中心となって行っていた教育の分野を非宗教化し、フランス語話者の社会的自立を目指す政策を行った。その一つとして1967年には「CEGEP」(Collège d'enseignement général et professionnel) というフランス語話者の教育水準を高めるための教育機関が作られた。しかし、この時代の移民は英語を習得する傾向にあり、移民の子供の学校教育における言語選択も問題となった。その中でも有名なのは1968年に起きた「サン・レオナール事件」(Crise à Saint-Léonard)である。英語系学校に進学を希望していたイタリア人移民の子供に対し、カトリック学校教育委員会) はフランス語系学校への入学を強制したことが発端である。これに対して子供を英語系学校に通わせることを希望していた住民が反発した。そのためジャン゠ジャック・ベルトラン (Jean-Jacques Bertrand) が党首であるユニオン・ナシオナル(Union Nationale) 政権は親が教授言語の選択権を認める一方、英語系学校におけるフランス語教育を義務づけ、フランス語が労働言語や公共掲示における優先言語と定めた「フランス語推進法」(63号法)を1969年に制定した。これに対してフランス語系住民はフランス系社会を弱体化させるとして反発し、約5万人の抗議デモを起こした。そして最終的にはユニオン・ナシオナルは解体することとなったのである。教育の分野に限定されていたこの革命は、次第に「フランス系カナダ人」から「ケベコワ」(Québécois)になろうという運動へと繋がった。すなわち、イギリス系カナダ人から“主権”をとり、「我が家の主人(Maître chez nous)」となるためのものであると伊藤(1984:146)は述べている。
*
1960年代のカナダにはソドミー法が存在しており、同性愛は罰せられていた(男性同性愛者を「犯罪的性的精神病質者」「危険な性的違反者」とみなし、無期限の実刑判決が科された)。また、ケベックではカトリック信仰が強く、かなり保守的な──家庭を持ち、たくさんのこどもを持つことが奨励される社会であった。
フランス系カナダ人にとっては、教育や社会保障をフランス系カナダの諸制度、特に教会に委ね続ける方がより安全に思われた。彼らにとっては、長い間英語系の金融・商業・産業界によってコントロールされてきた政府は疑わしい存在でしかなかった。一方教会は、十九世紀半ばのケベックにおける教皇至上権の確立によって強化され、国家中の国家となり、政府の諸機関にごくわずかの余地しか残さなかった。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/38/1/38_1_26/_pdf/-char/ja
フランス系カナダにおける出生率の低下は、1960年代以降に急速に進んだ世俗化の反映である。フランス系カナダではカトリック信仰がフランス語と並ぶアイデンティティの核であり、多くの子どもをもつことが奨励されたので、かつては10人以上の子どもをもつ家庭も少なくなかった。しかし、1960年代に入ってケベック州では「静かな革命」とよばれる政治・経済・社会の大改革が進められ、その過程でそれまで強い権威を維持してきたカトリック教会の影響力が著しく低下し、それにともなって出生率も急激に低下した。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ejgeo/12/1/12_12/_pdf/-char/ja
イーヴが話す、「客の男たちが行為後に態度を急変させてひどい仕打ちをしてくる」というエピソードには、こうした社会背景が反映されていると思われる。クロードにもガールフレンドがいたように、妻子のいるゲイ男性というのは珍しくなく、社会的地位を持てばこそ(持つために?)、カムフラージュの必要があったのだろう。クロードのガールフレンドは「わたしのボーイフレンドは同性愛者なんかじゃない!」と取り乱したそうだが、それが当時の「一般的な」反応だったのだろう。
*
イーヴを取り巻く偏見は、性的指向や職業だけでなく、人種的な偏見も含まれるのではないかと思う。ケベック州はフランス系カナダ人の人口が多いものの、社会の中心にいたのは英語系の人々だった(英語が話せないと昇進ができない)という。イーヴが教育について言及する場面があるが、英語系の学校とフランス語系の学校では資金力の差があったこと、また、英語教育を受けられるのは英語圏出身者のみであり、非英語圏出身者はフランス語教育しか受けられなかったということが指摘されており、構造的な差別があったといえるだろう。
1940年代には、都市化の進む一方で,人々の価値観は古いままであった。病院や教育は教会の支配下のままであり,多くの人々は,小学校を終えると,すぐ仕事についた。技術者や経営者になる
フランス系カナダ人は,ほとんどいなかった。
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8214868_po_yu-m.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
フランス語話者の多いカナダ・イーストやケベック州では、フランス革命を思み嫌ったカトリック教会が「アンシャン・レジーム」(Ancien regime)を築き、その結果フランス系住民の世俗化や工業化を拒んだ。そのような時にイギリス系住民やアメリカ合衆国の実業家が経済の主権を握っていたために英語が優勢言語であった。そのため、フランス語話者は昇進を目指すのであれば経営者の言語である英語を習得する必要があった。またモントリオールの商業用看板や広告、そして接客は英語であった。そしてフランス語話者は木材や鉄の採掘などの第一次産業に従事し、「Petit painのために生まれた人々」(Lesfrancophones sont nes pour un petit pain) とまで呼ばれた。その要因は上記で述べた通りアンシャン・レジームや政治だと言われている。しかし、教育において英語が優勢言語であり続けたことも要因であろう。この時代においても英語系大学と同様にフランス語系大学も先進的な教育を行なっていた。両言語の大学も政府から補助金を受けていたが、英語話者は前述のように経済界において高い地位におり、英語系大学はフランス語系大学に比べてより多くの寄付金を受けた。その結果としてフランス語系大学と英語系大学では資金面において差があった。
ケベックのフランス系の人々は、カトリック教会支配の教育システムのせいで、産業化社会に対応した教育を受けることもなかった。
それゆえに、外国資本の企業で管理職に就く割合は低く、未熟練労働者として就業することが多かった。地方から都会に出てくる農家の子弟などはさらに教育程度も低く、未熟練労働者になり、その父祖よりも社会的な地位は低くなった。そのころから、ケベックでも都市部に住む移民が増加しつつあったが、生活や経済活動に有利な英系の生活様式を取り入れ、英系に同化することによって、フランス系の人にくらべると高い地位を得るようになった。
教育に関しては、宗派別委員会、つまり教会にまかせきりで、教育行政のために政府内に大臣職を設置しなかった。よって、ケベックのカトリックのフランス系カナダ人の受ける教育内容は、カトリックの教義に反しない、カトリック信徒を養成するのに適したもので、決して産業化社会に対応してなかった。また、教育費は、1943年に義務教育が制度化され、翌44年には義務教育の無償が制度化されるまでは、有料だった。高等教育も、フランス系カトリックのケベックの住民にとって広く門戸が開かれていたわけではない。
一部のエリートに古典教育を施していた。教師も聖職者であることが多く、1950年には公立学校で半分の教員が、私立のコレージュでは90パーセントの教員が、聖職者だった。ケベックのフランス系の人々の教育は、宗派別委員会に教育行政や教える内容をまかせ、聖職者が教師になるなど、カトリックに深く影響されていた。そしてケベックの産業化社会に適応できない若者をつくり出した。
前述したように、教育が実生活で生きていくのに役立たないので、フランス系カトリックの生徒の学校離れも、英系の生徒よりも早かった。14歳の義務教育修了後、未熟練工として都市に流入する若者は多かった。このようにして、英系の人々との経済的な格差や生活水準・教育水準の格差が一段と顕著になった。
https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900022768/Sh-H0020.pdf
舞台に登場する4人の人物のルーツははっきりとは言及されないものの、名前から考えるとイーヴ(Yves)、ギィ(Guy)、ラトレイユ(Latreille)はフランス語系、ロバート(Robert)は英語系なのではないだろうか(ギィの立ち位置がいまいちわからないのだが……)。あの部屋をモントリオールという都市の縮図として見たとき、イーヴとロバートが展開する、〈まるで違う言語で話をしているかのような〉相互不理解を、フランス語系と英語系の衝突のメタファーとして読むことは不自然ではないだろう*2。
経済的な格差以外にも、フランス系カナダ人に対する差別はあったようだ。
詩歌Speak whiteは,幾層にも重なったコノテーションを含んでいる。whiteは、ここでは副詞的に用いられているが,「白人の言語」ということだろう。
周知のように,ケベック人は「白い黒ん坊 white nigger」と呼ばれて差別を受けてきた。英語以外の言語を話す者は白人ではないというわけである。Speak whiteは,本来,英語を使おうとしない人にむかって投げつけられた罵りの言葉であった。ミシェル・ラロンド Michele Lolande (1937-)は,その罵声をあえて自分の声に乗せることによって内面化し,社会的な弱者としての立場を積極的に引き受ける。また,6行目の「私たちは,無教養な吃音の民」は、フランス系住民を「歴史も文学ももたない民」と呼んだ,あのダラム報告書(1839年)への間接的な揶揄である。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/efj/32/0/32_KJ00009894630/_pdf/-char/ja
なお、調べ方の問題もあると思うが、「ケベック人が"white nigger"と呼ばれていた」というのは他所で同じ言及を見つけらなかった。ケベック解放戦線の指導者であったピエール・ヴァリエールが「英語を話す支配階級の下で二級市民として扱われている」というのをわかりやすくたとえるために、自著内で"white nigger"という言葉を使ったことはあるらしいが……。ただし、フランス系カナダ人が「二級市民」として見られていたというのは確からしい。
*
昔イーヴの家があったというウエストマウントはカナダでも随一の富裕層が居住する地域であり、相当裕福だったと思われる。そのイーヴが、いまはスラム街に住んでいる。これを、かつてケベック州を支配していたフランス系の人々が、いまは英語系の人々の支配下で「二級市民」として暮らしていることの比喩としてとらえるのは……さすがにこじつけだろうか。過去を──かつて自分たちのものだったケベックを──懐かしむようにウエストマウントの街並みを眺めるフランス系カナダ人、というのは。
※(0708追記)「ウエストマウントはモントリオール市に囲まれた英語話者のための別の市であり、彼は英語話者として生まれ育った」という情報をいただいたので、このくだりはかなりアレですね……笑
*
イーヴはクロードと出会ったことで生まれなおす。自分を美しいものだと思えるようになり、そして「もう誰かの男娼にはなれない」と悟る*3。これを、「二級市民」として扱われてきたフランス系カナダ人が、「静かな革命」によって「ケベコワ」としての自我を得るに至ったことの二重写としてとらえるのはどうか?
まあ、ケベックにおける人種の問題と結びつけて考えすぎてもこじつけになるだろうが、わざわざワードを散りばめている以上、まったく的外れというわけでもないのでは?と思う。それに、作者のルネ=ダニエル・デュポワは1955年にモントリオールに生まれたオープンリーゲイのケベコワであり、幼いころに1960年代のモントリオールを経験している。そんなルネ=ダニエル・デュポワが(立場はもしかするとクロード側なのかもしれないが)描くこの物語が、当時のフランス系カナダ人が置かれていた状況を無視して成り立つはずがないのだ。
ということで、モントリオールにおけるフランス系カナダ人という背景をもとに『クロード』を少しだけ考えてみた。(作者の意図に合致しているかは置いておいて)改めて調べてみると、二重三重に意味が織り込まれた複雑な戯曲だと思う。もちろんまだまだ拾いきれていない要素や、見当違いな解釈もあるだろうが。
『クロード』に限らず、特に海外の戯曲が上演される際に、観客としてどこまで予習というものをしていくべきなのか?でいつも悩む*4。国や時代が違えば、自分の持っている常識とは異なる部分が確実に出てくるし、前提となる知識が足りないなと思うことも多々ある。もちろん、それを日本で上演しても十分に面白い強度の戯曲を上演するのだろうし、どれだけカヴァーできるかが演出の役割であるとも思うが。『クロード』については、知識を必要としないでも読み取れる物語が存在しているから楽しめるのだと思う。
*1:余談だが、イーヴは7月5日時点でもうすぐ誕生日だと言われていた
*2:判事の名前はフランス語系だったと思うので、こじつけといえばこじつけだが……
*3:これはイーヴが「美しい人」と過ごしたときに実感したことである。わたしも混同していたのだが、この「美しい人」は酔っ払ってどうにもならない状態でベンチの隣に座ってくれないか、と頼んできたアメリカ人である。よってバーで出会ったケベコワのクロードとは別人で、クロードの部屋を出たあとに出会った客であると考えられる。クロードと魂の双子となり、愛に到達したイーヴが至った境地なのではないかと思う。
*4:怠惰なので、結局キャストすら調べずに観に行くことも多々あるが……。