夢と現実いったりきたり

ミュージカル『ジキル&ハイド』

@東京国際フォーラムホールC

 

STORY

19世紀のロンドン。医師であり科学者であるヘンリー・ジキル(石丸幹二柿澤勇人)は、「人間の善と悪の両極端の性格を分離できれば、人間のあらゆる悪を制御し、最終的には消し去ることが出来る」という仮説を立て、研究は作り上げた薬を生きた人間で試してみる段階にまで到達した。ジキルはこの研究に対して病院の理事会で人体実験の承諾を得ようとするが、彼らはこれを神への冒涜だと拒絶する。ジキルの婚約者エマ(Dream Ami/桜井玲香)の父親であるダンヴァース卿(栗原英雄)のとりなしもむなしく、秘書官のストライド(畠中 洋)の思惑もあり、理事会はジキルの要請を却下した。ジキルは親友の弁護士アターソン(石井一孝/上川一哉)に怒りをぶつける。理事会の連中はみんな偽善者だと。

ジキルとアターソンは上流階級の社交場から抜け出し、たどり着いたのは場末の売春宿「どん底」。男どもの歓声の中から、娼婦ルーシー(笹本玲奈/真彩希帆)が現れる。「(私を)自分で試してみれば?」というルーシーの言葉に天啓を受けたジキルは、アターソンの再三にわたる忠告にもかかわらず、薬の調合を始める。赤くきらめく調合液。ジキルはひとり乾杯し、飲み干した。全身を貫く激しい痛み―息も絶え絶え、苦痛に悶えるジキル。腰が曲がり、声はかすれ、まるで獣 — この反応は一体何なのか!そしてとうとう現れたハイド。そして、街では、次々とむごたらしい殺人が発生。謎に満ちた、恐怖の連続殺人事件にロンドン中が凍りつく。犯人は、ハイドなのか。エマや執事プール(佐藤 誓)の心配をよそに研究に没頭していくジキル。果たしてジキルの運命はいかに……。

ひとつの体に宿った二つの魂“ジキル”と“ハイド”の死闘は、破滅へ向けて驚くべき速さで転げ落ちて行く……

 

REVIEW

 アターソン以外はWキャスト両方観た。石井さん回も取ったつもりだったけど、結局全部上川さん回だった……。チケ取りはちゃんとしましょう。

 

 初見では主にルーシーの扱いが気になり、正直「あんまり好きになれない作品かも」と思った。ジキル/ハイド役に次いでクレジットされる大きな役で見せ場も多いのだけど、そのわりにルーシーの存在が物語においてうまく作用していない、活かしきれていないように感じた。最初から最後までジキルと通じ合い支え合い、ジキル/ハイド両名の魂を自由に導くのはエマの方なのだから、ルーシーよりもエマの描写に時間を割くべきではないのか、と疑問に思った。それに加えて、エマとルーシーが(ジキル/ハイドのために存在する)聖母と娼婦のロールであることも気になったが、初演から30年以上経っている以上仕方がないのだろうか、という多少の諦めのようなものもあった。一方、ジキル/ハイドというキャラクターはかなり魅力的で、ワイルドホーンの楽曲も歌い上げ系が多いので、好きな役者が主演するという点ではやはり捨て置けない作品である、というのが第一印象だった。

 しかし、観劇を重ねる中で、自分の視点を変えてみることによって作品自体をかなり楽しめるようになった。あくまで「自分が楽しめるようにするため」にこねくりまわした解釈ではあるけど。初見時に足りなかったもの、それは「ハイド」の視点であったと思う。初見時はヘンリー・ジキルという人間の視点から物語を読んでしまっており、エドワード・ハイドという人物をいち人格として認められていなかった。

 この物語をひとことでまとめてしまえば、ジキルとハイドというふたつの相反する魂がその収まるべき器を奪い合い、傷つけ合い、肉体から解放される話である(それこそ、「自由よ ふたりは いつまでも」とエマが歌うように)。ハイドはジキルとイコールではない。「悪の種子は誰しもが持っており、それが発芽するか否かはその人自身による」という話を思い出したのだが、ジキルの中の発芽しなかった部分が薬によって目覚め、「分離」という、ストッパーが存在しない特殊な状況がゆえに暴走したのだろう。よって、ハイドはジキルの中にたしかに「あった」のだが、その事実はジキルという人間の善性を脅かすものではない。ジキルに間違いがあったとすれば、善と悪の分離という「倫理」を踏み外したこと、自分には悪を抑制できるという傲りがあったことである。

 ジキルは、♪知りたい「神よ 勝利の日を導かん/ヘンリー・ジキル あなたのしもべだ」と神に誓うが、(少なくとも柿澤ジキルは)本気で神に従順であろうとはしていない。誓いを立てる前に右側の唇のはしを少し吊り上げて不敵に笑み、まるで交換条件を持ち掛けるように歌い上げているのだから、そこにあるのはむしろ神への不遜なのである。あくまで彼を突き動かすのは父親の存在である。精神病棟にいる父親を闇から連れ戻すために生み出すのが「善と悪を分離する薬」なのはやや飛躍があるように思うけれども……。

 ジキルの視点ではハイドは悪の象徴であり、克服すべき敵である。しかし、ハイドの視点に立ったとき、ジキルは肉体を不当に占拠し、ハイドが享受すべき体験を奪い、あまつさえ自分を抹消しようとする存在であるといえる。ハイドが目覚めたとき、すでに肉体はジキルのものであり、ハイドには名前すら与えられていなかった。ハイドの中には、ジキルと自分を比べたときになぜジキルが選ばれるのか、という問いがいつもあるように見える。倫理観をこえた怪物のようにふるまうハイドが、ジキルのことになると狼狽を見せる*1ように、ジキルに対するコンプレックスが常に存在しているのは間違いない。♪生きている で自分の名前を高らかに宣言するハイドは、自らの生を喜ぶ気持ちの裏で、ジキルへの復讐心に満ち満ちているのだ。

 ハイドが引き起こす事件についてはまったく擁護できるものではないが、それらが自分が肉体の主人であるという示威行為とジキルへの復讐を兼ねていると考えれば納得はできる。自身の存在の確信のために、そしてジキルの信念を蹂躙するために人を殺す。全能感に興奮も覚える。暴力的な行為で撹乱されそうになるけれども、ハイドからは「自分の存在を知ってほしい」という渇望が垣間見える。ルーシーから名前を呼ばれたとき*2に「ハイドの左手*3」が動き出したり、アターソンから名前を呼ばれたときに嬉しそうに笑い出したり。自分他者に認識されて初めて自分が誰であるかを確認できる、というのは、♪その目に でジキルの目を通して自分の人生を強く意識するルーシーと似ている。

 ルーシーへの執着については、(特に柿澤ジキルの)酒場でのふるまい──ルーシーは「あたしのことをじっと見てた」と言うものの、実際はあまり見ていない──やエマとの強い繋がり*4を鑑みたとき、ジキルの無意識にルーシーへの興味があったと考えるよりも、ハイドがルーシーと自身の境遇を重ね、共鳴している*5と考える方が納得がいく。同じように「どん底」にいて、やさしさやあたたかさといったものを知らなかったルーシーが、他でもないジキルによって光の方へ向かっていくこと。ハイドの口ずさむ♪Sympathy, tendernessの旋律はまるで「置いていかないで」と縋っているように聞こえた。その声音を耳にしたルーシーは一瞬はっとした顔をして、ハイドへの恐れでいっぱいだった面持ちに切なさや苦しさが広がっていく。真空パックで保存しておきたいくらい印象に残るシーンだった。

 ところで、ここでルーシーの人生が乱暴に閉ざされてしまうことにはやっぱり納得がいかない。散々虐げられてきた彼女の人生がようやく始まるかもしれないというところでこんなふうになってしまうなんて。しかもハイドの嫉妬心や復讐心のために殺されるなんて。あくまでこの物語がジキル/ハイドのための物語であって、ルーシーはその人生に彩りを添えるためにしか存在しないように見える。それが古いホンの限界なのかもしれないけれど。もし殺されなかったら、ルーシーはハイドにどんなふうに声をかけただろうか。その後、どんなふうに新しい人生を歩んでいただろうか。そんな「もし」を考えざるをえない。

 

 ルーシーとエマは対比する位置に配されることが多いのだが*6、真逆の立場ではあれど彼女ら自身の性質は必ずしも対比的ではないので、そのような演出に少し不均衡を感じた。彼女らは作中言葉を交わすことはないが、一度だけ交錯するシーンがある。それが「慈善晩餐会の入り口で物乞いに喜捨をするエマを目撃し、その場を走り去るルーシー」という構図である。もちろんルーシーはエマがジキルの婚約相手であることは知らないだろうし、エマはルーシーの存在すら認識していないだろうと思われるが、施す側と施される側という立場が浮き彫りになる邂逅だった。

 なお、作中で物乞いに喜捨をするのはこの場面のエマと、理事会でのプレゼンが失敗に終わってアターソンに理想を語っているときのジキルのみである*7。ジキルがルーシーへ渡すお金についてはあくまで対価であり、物乞いへの施しとはまた別の行為であると捉えてはいるが、ルーシー自身♪あんなひとが で痛いほど自覚しているように、ルーシーとジキル・エマがレイヤーの違う世界で生きていたことがわかる。だからこそ、そこから脱却した姿が描かれていてほしかった。

 エマはとにかく強くジキルを信じ、愛している。最後はジキル/ハイドをゆるす聖母としての存在なので、それが(女性に課せられるよくあるロールという意味で)厳しいところでもあるが、エマとジキルの強い結びつきのことを愛してもいる。ジキルが研究に関する不安を吐露したときに背中を押し、ジキルがハイドと戦っているときには笑顔で彼を信じて「待つ」。エマの精神的な強さは好ましいのだが、やはり「待つ」のが彼女の役割というところが古いホンの限界なのだろうか*8。ラストシーンで神々しいまでの光を浴びてジキル/ハイドをゆるす姿は、あからさまに聖性の演出で、いわゆる「レンブラント光線」の役割をエマが担い、ふたりの魂を救済している。そんなふうに女性に聖性を見るのも手垢のついた表現であり、女性を描けていないとは思うものの、エマとジキルに対して強烈なカップリング的な萌えを感じてしまっているのも事実であり……。エマの描写を増やしてヒロインとして扱って宝塚でやったらヤバいほど萌えるよね!? みたいな話をしてしまった*9

 柿澤さんのお芝居には人間くささが滲み出るのがとても好きだな、と思っていたけれど(ハイドのことをこんなに愛せたのは柿澤さんの人間くささのおかげな気がするし)、婚約パーティーでのエマとの絡み芝居を見ていて、こういうところに「萌え」を出すことのできる役者なんだなと思った。(「萌え」を本人が意識して出しているかは別にして)「恋」の表情、何かに魅せられている瞳のきらめき、という表現が相当うまいと思う。だからこそ突っ走って破滅するキャラクターが当てられやすいのかもしれない。

 

 とにもかくにも、ジキル/ハイドという役を好きな役者が演じているところが観られたのはとても幸せなことだと思う。そもそもナンバー数も多いし歌い上げの曲も多いし、とても大変な演目だとは思うけれど、指揮の塩田先生がテンションを上げてくれているようでよかった。柿澤さんによると塩田先生は武豊ばりの名ジョッキーなんだそうな。今回オケピ内がよく見えるつくりだったので塩田先生のこともチラ見していたら、ルーシーの酒場のところで踊っていたり、歌い上げのあとにリアクションしていたりで、そのエンターテイナーっぷりも楽しかった。

 

 ところで、ラストシーンでエマの首を左手で絞め上げ(右手も首に添えながら)、エマの瞳から逃げるように顔を逸らしていたいまにも泣きだしそうな表情はいったい誰のものだったのだろう。そして、アターソンに「""を自由にしてくれ」と懇願したのは誰だったのだろう。左手も一人称「俺」もハイドの象徴であるけれども、あれがどちらか一方だったという確信を持てないでいる。確かなのは、ふたりがともに自由になりたかったということだけだ。

*1:部屋でルーシーに迫る場面「あいつにあって俺に無いものはなんだ?」「あのひとは、あたしにやさしかった」「あいつは、弱くて…」や、アターソンに変身の秘密を暴露する場面「俺がジキルをどうしたかって? あいつが俺を……!」

*2:ルーシーがジキルに背中の傷を治療してもらう場面「あいつの名前は忘れやしない」

*3:ハイドは左手、ジキルは右手が利き手であり、主人格の意図に反して動き出す場合は基本的に利き手側が動き出す。ハイドの左手は「蠢く」という形容が似合う奇妙な動きである。

*4:♪Your Work and Nothing More でジキルが歌う「ただ仕事をするだけじゃない なんのために僕は生きてる/エマ 道を見つけて」や、♪「ありのままの」の前 での不安の吐露、♪ありのままの での全幅の信頼を置くようす

*5:ルーシーがジキルを想って歌う♪Sympathy, tenderness、ハイドがルーシーを手にかける前に歌う同曲のリプライズ

*6:♪嘘の仮面 や、エマがダンヴァース卿という父親からの自立を選び(♪別れ)、ルーシーがスパイダー≒「どん底」からの脱却を夢見る、その中心にジキルという存在がいる、という演出の♪その目に など

*7:「貧困も!」

*8:2回目

*9:個人的にはれいはながいいです