夢と現実いったりきたり

ロミジュリについて考えたいろいろ

 

 東宝ロミジュリが上演されていたのは大体半年前ですが、私は未だにロミジュリのいろいろを考えては苦悶しています。

 

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 観劇してすぐに書いた感想で、ロミジュリの余白の多さに言及していました。余白が多い、ということは、正解のない問題がたくさんあるわけです。延々考え続けられますね!やった!(地獄) この半年間、私は発作的にロミジュリのことを思い出しては深夜まで延々ツイートし続け、毎度「わからない……」で〆てきました。その考察……というか勝手な解釈がそこそこ溜まってきました。

 

 ということで、これまでに考えたいろいろをまとめておこうと思います。忘れちゃうからね……。

 

「犠牲になった子供たち」の物語

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 私はこの、ロミオとジュリエットは「平和の道具」説がめちゃくちゃ好きです。ロミオとジュリエットが激しく恋に落ちる理由として、正直これ以外で納得のいく答えが見つからない。(最近恋愛系の作品を見ていて、男と女が出会ってなんか腑に落ちないまま恋に落ちて物語が進んでいくんですが……?という具合の悪い経験が多く、私が「恋愛」をうまく消化できていないだけ、というのも考えられます。精進します……。)

 さらに、私はロミジュリの物語を「犠牲になった子供たちの話」として捉えています。そこともうまくハマっているため、「もうこれしかないじゃん!」くらいに思っています。キリスト教寄りの解釈も、ベンヴォーリオの「どうやって伝えよう」の背景がミケランジェロアダムの創造』の神とアダムの指である(多分)ことから、むしろキリスト教に寄って解釈すべきでは?と思ってます。そもそも十字架ドーン!だし……。

 

モンタギュー/キャピュレットの対応関係

 で、「犠牲になった子供たち」とは誰のことか、というと、ロミオ・ジュリエット・マーキューシオ・ティボルト(・ベンヴォーリオ)のことです。

 彼らは皆、モンタギュー・キャピュレット両家の確執に巻き込まれ、憎しみを植え付けられ、その結果大人になれずに命を落とします。唯一生き残ったのベンヴォーリオだけが「大人」になる。このことに関して、元々私は「ロミオとジュリエット、マーキューシオとティボルトがそれぞれ対応関係にあるが、ベンヴォーリオと対応するキャピュレット家の人物がいないから」だと考えていました。が、「ベンヴォーリオのシンメは乳母」説を提示され、「いや……それやん……最高……」(脳直)となったので、めでたく乳母がベンヴォのシンメに就任しました。*1で、なんでベンヴォが生き残るんだ?という疑問に関しては、うーん、まだ考え中です。「生き残る」より「大人になる」が正しいかもしれません。

 

「子供」と「大人」のはざまで

 対応関係云々は置いといて、ロミジュリ/マキュベンティボは同じ「子供」ではありません。ロミオとジュリエットは、モンタギュー夫妻・キャピュレット夫妻という彼らの両親が登場します。対して、あとの三人の親は登場しません。彼らは皆、「甥」という立場なのです。マーキューシオはヴェローナ大公の、ベンヴォーリオはモンタギュー夫妻の、ティボルトはキャピュレット夫妻の、それぞれ甥にあたります。*2そして、ベンヴォーリオはロミオの面倒を見る役割、ティボルトに至ってはキャピュレット家の跡継ぎという役割を背負っています。あくまで「保護される子供」であるロミオとジュリエットとは違います。ロミオはモンタギューの一人息子なので跡継ぎのはずですが、ティボルトのように「跡継ぎ」という役割を強調されてはいません。マーキューシオの立ち位置はちょっと不明なのですが、彼も「保護される子供」という文脈で語られることはない(はず)。

 じゃあ、ロミジュリ/マキュベンティボで何が違うのか? それは、「家に縛られているか否か」というところじゃないか、と考えます。ロミジュリは、敵対する家の子だと知って「マジか?」と一瞬ショックは受けるものの、すぐに「関係ない!結婚しよ!」って気にせず結婚しようするし、家に縛られている様子はありません。マキュベンはロミジュリの結婚の噂を聞いてロミオを責め立てているし、ティボルトの憎しみの強さは語らなくてもわかると思います。これは彼らが純粋に「子供」ではなく、「大人になること」を少し意識し始めているからではないでしょうか。

 

大人になれなかった子供たち

 ヴェローナにおいて「大人になる」というのは、家に縛られることではないでしょうか。だからロミオとジュリエットは子供のまま、死んだ。そして、マーキューシオとティボルト。彼らは、大人にはなれなかったから、死んだ。

 この二人は、外から見たときと、内から見たときのアンバランスさが特徴的です。マーキューシオは見た目からしてクレイジーで、言動もちょっとエキセントリック気味。でも本当はすごく優しくていい子なんだろうな……と節々から感じられます(ただ、マーキューシオって謎が多いのに退場も早いので、なかなか情報が少なくて掴めない)。ティボルトはキャピュレット家の跡取りでリーダーで、おまけに夫人と関係を持っていて、もう見るからにアダルト!大人!(同じ意味です)って感じなのに、本当は誰よりも弱さというか、自分の本心と行動の乖離を恐れて悩んでいたんじゃないかなと思います。

 

 ティボルトの内面については、特に「本当の俺じゃない」に顕著。

 

だが大人たちは植えつけた
憎しみに満ちた苦い種
歪められた正義心
逃れるすべなく染められた
俺の心の内 誰が知るだろうか

本当の俺じゃない
俺が何をしても大人たちが仕向けたんだ
本当の俺は違う
復讐の手先になんか
なりたくはなかったんだ

憎しみは俺を突き動かし
気が付くと拳を握りあげて戦い始めてる
誰も止められない

 

  彼の中では、「今の自分は大人たちの憎しみがつくったもので、やることなすこと全てが大人に仕向けられたもの」という認識なんです。ま……マジで?(動揺)でも、もしそうならば、彼の言う「本当の俺」というのは一体どこに存在するんでしょうか……。しかもこの独白は誰にも知られない。彼が唯一救いとしたジュリエットへの想いも、誰も知らない。「本当のティボルト」を誰も知らないまま彼は死んでいくのです。辛すぎん?

 

 さらに辛いことなんですけど、「本当の俺じゃない」の冒頭を見てみると、

 

子供のころは夢を見た
勇気溢れるヒーローに
なってドラゴンをやっつけて
囚われのプリンセス助け出す

 

このような記述があります。ヒーローを夢見ていたころの自分は恐らく彼にとって「本当の俺」。しかし、「ドラゴン」というのはモンタギュー家の象徴でもあります。モンタギューの象徴たるドラゴンをやっつける空想は、大人に植え付けられた憎しみが作用したものではないと言い切れるでしょうか。もうすでに憎しみは芽を出していたのではないでしょうか。また、このナンバーは舞踏会でロミオとジュリエットが出会った後に入るものなので、ドラゴン=モンタギュー家のロミオにとらわれたプリンセス=ジュリエットを助け出す、という現実との二重写しにもとれて面白いです。

 

 ちなみにティボルトにとって「ヒーロー」とは子供のころにあこがれた存在ですが、モンタギューの若い衆にとっては「地上のヒーローは俺たち!」なんですよね。

 

憎しみ

 上述のように、ティボルトの憎しみは結構わかりやすく表出しています。対して、わかりづらいのがロミオの憎しみ。私は「ロミオは子供のまま死んだ」と述べましたが、彼にも両家の憎しみの種が潜んでいました。それが芽を出したのがティボルトの刺殺の場面です。マーキューシオを殺されたロミオは、思わずティボルトを刺してしまう。刺した後、自分でも信じられない、という顔をする。己の中に植え付けられた憎しみに自覚的で、ずっと悩んできたティボルトと、ずっと憎しみと無縁だったにも拘わらず、マーキューシオの死を契機にそれが急に顕在化したロミオ、という対比があります。ロミオに刺されたあとにティボルトが微笑んだ、というレポを見かけて、それは憎しみから解放されたことへの笑みなのか、ロミオが自分の中の憎しみに気付いて動揺している様を見ての笑みなのか、はたまた全く別な笑みなのか……ちょっと考えてしまいました。

 

 憎しみといえば、マーキューシオにとっての憎悪の対象は一体なんなのか問題。私はティボルト個人に向けた憎しみなのかな、という解釈をしています。これはちょっと当時の感想で触れたから省略で。新しく考えたことを書こうと思います。

 「決闘」で、ティボルトは「マーキューシオ お前は死ぬ」、マーキューシオは「ティボルト 殺してやる」と歌って闘います。実はここの歌詞は、フランス版ではどちらも同じ"je vais te tuer"="お前を殺してやる"となっています。訳詞だとわざわざティボルトからマーキューシオへの憎しみ成分が削られていて、マーキューシオが一方的に吠えているイメージが強くなっています。意図的かなあ。ただ、このままだとマーキューシオがかわいそうなので補足しておくと、ティボルトがマーキューシオのことを「まるでピエロだな」とめちゃくちゃ馬鹿にするところもあります!ティボルトにとってマーキューシオはワンノブゼムじゃなかったよ!!!よかったね!!!(乾杯)

 

マーキューシオとティボルト

 私はマーキューシオとティボルトの確執について考えるのが好きなので、何かにつけて彼らの共通項を探しています(……)。で、最近パンフレットを読み返していて気がついてしまいました。髪の色です。マーキューシオの髪はモンタギューの青、ティボルトの髪はキャピュレットの赤に染まっています。メインのキャラクターはもちろん、舞台写真で確認した限りモンタギューとキャピュレットの若い衆たちに同じような髪色hはいません。これは彼らが「両家の憎しみに染めあげられている」と考えることはできないでしょうか。

 また、二人ともナイフを愛用している、という点も共通です。「ヴェローナ」のティボルトパートでは「俺の強い味方それはこのナイフ」とうたわれ、マーキューシオは夫人らが「憎しみ」を歌っている横でベンヴォーリオにナイフを取り上げられています(めっちゃたくさん所持している)。そして二人ともナイフで死ぬ。(ううっ)

 

 話は少し変わるのですが、「マブの女王」でマーキューシオは「マスクをつければわからないさ 誰が誰だかわからないさ」とうたいます。ロミオを仮面舞踏会に誘い出す場面なので、これは仮面舞踏会のことを指しているんですが、ここに他の意味も籠められているんじゃ?と思っています。モンタギューとキャピュレットという家の色に塗りつぶされて「自分」がわからなくなっている状態、それから、でもマスクをつけてしまえば家の色なんてわからなくなってしまう、結局皆同じヴェローナの人間なのだ、という解釈ができないでしょうか。まさに家の色に染まっているマキュがうたうのもなんとも皮肉な気もしますが……。そして舞踏会でマスクをつけてても結局いがみ合う(暴力沙汰にはならない)マキュとティボは愛しいと思います。

 

衣裳について

 これ、パンフをなめるようにみていてようやく気づいたんですけど、モンタギューっ子たち、上着の背中にモンタギュー印(Mのマーク)を入れてるんですね。めっちゃかわいくないですか!?やんちゃな中学生のようで……。ベンヴォーリオは腕に金の刺繍を入れているので、特にヤンキーっぽさが出ててかわいいと思います。ロミオの衣裳には迷彩柄が使われていないのがすごく気になるんですがこれはどういう意味なんだろう……。モンタギューは割とみんな(若い衆含め)各々の個性に合わせた衣裳を着ていて、キャピュレットは結構統一されているのがお家柄なのかしら。モンタギューは制服を着崩してるみたいでいいですよね。やんちゃ感。モンタギューは公立で学ランセーラー服、キャピュレットは私立のブレザー校って感じです。(なんの話?)

 

 

わからないこと

 まだちょっと解釈に悩んでいるのが、ベンヴォーリオの「どうやって伝えよう」の背景。ベンヴォーリオが葛藤を歌っている中、赤い背景に映し出された二つの手が近づいたり離れたりしていました。これはミケランジェロの『アダムの創造』におけるアダムと神の指だったと思われます。ググったらこの場面は「神がアダムに息吹をあたえる」という旧約聖書のひと場面だそうですが、すると「誰が神で、誰がアダムか?」という問題が発生します。ここはベンヴォーリオがロミオに「ジュリエットが死んだ」という情報(間違ってたけど)をどう伝えるか?と悩むシーンなので、「与える者」という意味ではベンヴォーリオ=神、「与えられる者」という意味でロミオ=アダムが自然かもしれません。ロミオの最期の姿勢がアダムの姿勢に似ているので、余計にそう思われる……のですが、ロミオはベンヴォーリオから与えられた情報によって最終的に死んでしまうわけで、息吹を与えられるアダムと真逆ではないか?そもそもベンヴォーリオが神って似合わなくない?などの疑問があります(ふたつめはただの印象論)。

 

 

 結論:ロミジュリはやばい

 考えても考えても尽きない疑問、何回見ても新しい発見のあるパンフ・歌詞、ロミジュリの魔力はいつまでも続いています。何より恐ろしいのは、私はロミジュリを一度しか見ていないのにここまでずっと考え続けている、ということです。もし東宝ロミジュリが再演されたら、みんなこの魔力にあてられに、赤坂ACTシアターもしくは梅田芸術劇場に行きましょう。

 

では。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:やった!

*2:これでいくとベンヴォとティボが対応しててもいい気がする