夢と現実いったりきたり

おしらせ

 

 ブログの仕様を諸々変えました(だから何、というわけでもないのですが)。

 

 ※ グループにも一応表示されるよう、一時的にカテゴリー追加しています。

 

タイトル

 

旧:「夢と現実いったりきたり」⇒ 新:「phenomenon」

 

 

 

単純にタイトルが長くてデザインが崩れがちで面倒だったので変えました。

響きが好きな単語です。特に深い理由はありませんが、旧タイトルの由来だったふぇのたすの前身バンド名もそういえばphenomenonでした。

 

デザイン

お借りしたテーマをちょっといじっています。赤背景に黒文字というどんだけ読みづらいんだよというデザインですが、リーダー機能をご活用ください(他人まかせ)! くすんだ赤とグレーがかった黒の組み合わせが好きなのでこの色合いです。

 

テーマの仕様なのか、スマホからだと引用スターがつけられないようです。どうにかする方法が見つかればいいんですけど、見つかりそうにないので、引用スターをつけたい! という方はPCから見てください。

 

あとは、タイトル下にメニュー(「ABOUT」「CATEGORIES」「ARCHIVES」)を追加したので、スマホから見やすく……なったかな? ついでに、未来日付のエントリをABOUTとして使っていましたが、はてブロのaboutページを発見したのでそちらに変更しました。

 

他に細かい部分も変えてます。HTMLは中学生ぶりに触りました。HTMLとかCSSとか、勉強したらもっと色々面白いんだろうな~~と思うんですけど、必要ないと勉強する気が起きませんね。

 

今後もよろしくお願いします。

 

 

ドラマ「QP」

ドラマ「QP」(2011)

あらすじ

拳を壊して志半ばでボクシングチャンピオンの夢を諦めた美咲元は、ある日、天狼会のボスの我妻涼に出会う。人並み外れたオーラを放つ涼に一目で憧れを抱いた元は、すぐさま天狼会のドアを叩く。そして、涼から世話役として紹介されたヒコを兄貴として慕うようになっていった。
そんな最中、この地域で幅を利かせている横溝組が涼の身辺を嗅ぎまわり始めていた。対立を深める横溝組と天狼会、そしてその様子をさぐる古岩組。均衡を保っていた3つの組が、徐々にバランスを崩していく…。
次第に明らかになる涼、トム、ジェリーの過去。夢や野望を実現させるためなら手段を選ばない者たちが見せる生き様。誰もがわかるものではない、修羅場を経験した者だけに結ばれる絆。窮地に立たされたとき、暴力の世界に身を投じた男達は何を選び、そしてどう生きるのか…。

http://www.ntv.co.jp/QP/

 

 感想

  以前フォロワーさんがおすすめされていた「QP」、「トドメの接吻」のスピンオフ「トドメのパラレル」を見るためにトライアル入会したhuluにあったので、見ました。ドメキスは今期割と本気で一番楽しんで見ているドラマなのですが、ドメパラを見るとより愛おしくなるので見ることをおすすめします。制作陣におもちゃにされる、もとい愛されている真剣佑があんなことやこんなことをするドラマなので。なぜか大抵ホラーノベルゲーのバッドエンド風に終わる。

 

 さて、この「QP」は、めちゃくちゃざっくり言うと、我妻涼(演:斎藤工)と元ボクサー・美咲元(演:林遣都)が出会ってから、我妻率いる天狼会が崩壊するまでの期間を描いた所謂ヤクザもののドラマです。正直前半の5話くらいまで流し見していたので「この人誰だっけ……」となることもしばしばだったのですが、多分ちゃんと見てたらわかると思うし、私みたいに不真面目に見ていたとしても5話過ぎたあたりからめちゃくちゃ面白く見れると思います。というのも、天狼会を始め、登場人物の思惑や過去がこのあたりから明らかになっていくからです。

 

 私が好きなのは天狼会の殺し屋・トム(演:金子ノブアキ)とジェリー(演:渡部豪太)の関係性。むしろ彼らを嫌いな人いるの???? ってなってるんだけどどうでしょうか。この二人、孤児院で出会って、色々あって二人で殺し屋として生きていくことを選んだ義兄弟(トムとジェリーは仮名)で、互いが互いに重いくらいの愛情を持っているんですね。彼らの夢は、稼いだお金で沖縄の丘を買って、二人だけで住むこと。「我妻に賭けたい」と思ったトムの気持ちは本心だったと思うけど、彼らにとって世界に必要で最優先なのは互いの存在で、最終的にはああいう形になってしまったのがしんどいなと思います。何度も繰り返し出てくる幼少期の二人の会話(「QP」は全体的に同じシーンが何度も繰り返されるけど)が、言い回しを含めてすごく好き。ジェリーは「自分が死んだらトムは泣くけど、そのあとは一人でも生きていける。自分は、泣きはしないけど後追いはするかもしれない(=一人では生きていけない)」ということを淡々とした調子で話すし、二人だけで沖縄に住む提案をするのも元々はジェリーだし、クールに見えてすごい重い(褒めてる)。多分、彼にとってトムは唯一の救いだったんじゃないかな、という話なんですけど。劇中、何度か「現在」の彼らと幼少期の彼らが重ねられる演出があって、トムとジェリーの二人の時間はあの頃から止まってるのかもしれないなと思いました。

 

 あまりにもトムとジェリーのことを好きになったので彼らのイメソン(嘘ではない)買いました。この曲に限らず、全体的に音楽のセンスがかっこいい。

Rabbit Foot

Rabbit Foot

  • Song Riders
  • ヒップホップ/ラップ
  • ¥200
  • provided courtesy of iTunes

 

 

 

 

 あとは情報屋・エイジくん(演:窪田正孝)、古岩組の若頭・蜂矢兼光(演:やべきょうすけ)も好き。エイジくんの出番って結構少なくて、ちゃんと出てくるのって5話と11話くらいなんだけど、もう言動がいちいち全部かわいい。ここで唐突に、私が選ぶエイジくんかわいいランキングを発表します。

 

  • 大きい灰皿の煙草を外に出して、そこに水をいれて飲むエイジくん。
  • トムに電話をかけるエイジくん。(敢えて文字に起こすと「もしもしぃ~~?♡トムさんですかぁ?♡エイジですぅ♡あぁ~んもうよかったぁ~~♡ちゃんと生きてたんすねぇ~~♡♡」)
  • 「諭吉……♡あっもうすっげー気持ちいい……♡」って言いながら札束に頬ずりするエイジくん。

 

 同率一位。エイジくん、基本的に「にゃはーん」って感じの顔をよくしてるし、灰皿で水を飲むシーンなんかもはや私に人間に見えてるだけで実は猫なのでは……とすら思うほど、猫っぽい。窪田くんのファンは多少無理してでも見た方がいいと思います。あ、蜂矢は純粋に私がめちゃくちゃ好きなタイプの男です。

 

 

 ストーリーとしては我妻はこの後も誰かを信じることなく、さらなる破滅へ向っていくんだろうな……という救いのなさを突きつけて終わってしまうので、誰か我妻の魂を救ってあげてほしいなって思う。彼は天下を獲るつもりなんだけど、いろいろヤンキー・ヤクザ映画やドラマを見ていく中で、てっぺん獲ったその先に一体何があるんだよ……という気持ちがどんどん強くなっています。だってみんな孤独になって破滅していくんだもん……。校内でナンバーワンになる!っていうストーリーだったらそうでもないんだけど、舞台が学校の外に移ると急にみんな破滅に向かってしまう気がする。大抵社会からドロップアウトしてしまった人たちが登場人物で、闘う手段が銃や刃物になって、死と裏切りが隣り合わせの世界だから仕方ないのかな。泣いちゃう……。なんかそういう意味でやっぱり美咲くんとみんなとの間には断絶があったんだよな~~。我妻が美咲くんを昔飼ってた犬に重ねる描写があったり、他のみんなも割と彼に優しかったけど、美咲くんみたいにきゅるきゅるしたお目目のかわいい男の子が、現実を知らずにぽやぽやヤクザの世界に憧れてきたら、そりゃみんな優しくしちゃうよねって。

 

 

 

 キャストも被ってるし、なんとなくソリッドな「HiGH&LOW」っぽさがあるから、ハイロー好きな人は「QP」も好きなんじゃないかな、っていう無責任なことを言っておきます。私は1話に鈴之助が出てたのもあいまって「ガチバン」シリーズを見たくなってきました。どこまで見たっけ……。

 

 

 

それでも生きていく、ということ/Dステ「アメリカ」

 

 

作・演出に小劇場界を代表する劇作家、THE SHAMPOO HAT赤堀雅秋氏を迎え、赤堀氏の代表作「アメリカ」に挑戦。脚本に大胆な改訂を加え、登場人物も増え、まさに2010年のD-BOYS STAGEのための「アメリカ」となった。演劇の聖地、本多劇場紀伊國屋ホールでの初の公演、また大阪以外の名古屋、新潟での公演も初めてであった。
築30年ほどのボロアパートの一室を舞台にした過去と現在の物語。劇団の公演を目前に控えた弟の部屋には、いつものように仲間が集まっていた。台本の執筆は一行に進まず、息詰まる空気を打ち破る事ができない。一方現在、兄は弟が姿を消したその部屋に遺品整理のために訪れていた。兄と弟…隔てられた2人の気持ちが交差することはあるのだろうか?

 

 

 「TRUMP」と「淋しいマグネット」を見た後、次何見ようかなと思ってたところに「好きだと思う」ってすすめてもらった「アメリカ」。当たり前に好きでした。

 

 私は映像で見たから余計にだけど、この作品は、稔に手向けられた花束から始まる。真赤な情景とパッヘルベルのカノンも印象的。これらはラストシーンとも共通している。あの真赤な情景に、夕陽の光という表現は似つかわしくない気がする。あれこそ「赤光」だ、と感じた。ちゃんと読んだことはないけど、斎藤茂吉の『赤光』という詩集があって、どうやらこの赤い光は狂人の精神状態と結びついているらしい、と、芥川の『歯車』を読んだとき耳にした。「アメリカ」の人たちは、みんな少しずつ不自然で、でもそこから目を背けていて、息苦しい。あからさまな狂人がいるわけではないけれど、どこかにしこりがある人たちばかりだった。

 

 中でも一番、「歪み」があるなあと感じたのは、荒木さん演じる清。弟が死んでも、涙一つ見せず、平気なふりをしている。本心を誤魔化しているところも、困った時に浮べる作り笑いも、上司からの電話に不自然なほど笑い声をあげるのも、なんか痛々しくて、後輩が「頭にくる」って言うのも仕方がないと思う。離婚したばかりで、鬱病を患ってて、潔癖症っぽい。「あの人アッチ系じゃないよね?」って言われてたけど、私は割と真面目にそうなんじゃないかな、と思う。直観的なものでしかないけど、それがしっくりくる。隣人が「『仮面』の『仮』だよ!」と何度も言うけど、その言葉はいつも清に向けられていて、離婚した奥さんとは仮面夫婦だったのかなあ、とか考えてしまった。いつも平気なふりをしている=仮面をかぶっている清、という意味かもしれないし、それとも全く意味なんてないのかもしれないけど。

 

 このお芝居では、何かと印象的なものが多い。窓。時間。煙草。トイレ。だけどそのどれも、明確な意味は明かされない。登場人物のことも、「どうして?」と引っかかることがたくさんあるけれど、明かされないどころか一切触れられないまま終わっているものの方が多い。たとえば、森くんはどうして骨折しているのかとか、兄弟がどうして10年もの間会っていなかったのかとか、稔がどうして異常にトイレに行っていたのかとか。明かされない、というのが、あまりにもリアルすぎた。私なりに「納得のいく答え」を勝手に導き出してしまいそうになるけれど、人間と人間と人間の間に生まれるドラマって、そんな単純な謎解きなんかじゃない。因果関係ってもっともっと入り組んでいて、本人たちですらわからないくらい細かいことが少しずつ影響しあって織りなされるものなんだよな、と思った。

 

 ただ唯一わかることは、彼らみんながそれぞれに複雑な思いを抱えていて、それを口に出そうとはしないということ。出さない、というより、出せない、という方が正しいかもしれない。それは、口に出す勇気がなかったり、相手への遠慮だったり、はたまた自分自身でも気が付いていなかったりするからなんだろうなと思う。いくらバカなことをやっていても、彼らは既に子供じゃなかったから。いろんなもやもやや、許せないことや、悔しいことや、そういうものって解決しないことがほとんどで、でもそれでもなんとか毎日生きていかなきゃいけない。目を背けながら、口を噤みながら、だましだまし生きている人間たち。私は彼らを愛しく思う。

 

 だけどやっぱり、いつまでも向かい合うことを避けたままでは生きていかれなくて、それがラストシーンで描かれた兄弟の邂逅だったのかな、と思います。アメリカに旅立つ準備をする稔を見つけて、心底嬉しそうな顔をする清。子供のころのように、輪ゴムの銃で稔を狙う清。いくら命中させても声をかけても気が付かない稔に、これは自分の幻覚(もしくは夢)なのだと気が付いて崩れていく表情がとても素敵でした。本当に稔が銃に撃たれて死んだのだとしたら、「輪ゴムの銃」というのも切なくなるアイテムだな、と思う。果たしてラストの稔の表情は何に向けられたものだったのか、決して交わるはずのない二人の視線は交錯したのか? というのも人によるだろうけど、どちらにせよ、清が稔に対する未練から少し解放されたことを示しているんだと思った。鳴り響くカノンが、彼らの訣別をより際立たせているようだった。明るい話ではないけれど、カタルシスが得られた。これまでのすべての出来事がこのラストシーンのためにあったのだと言いたくなるくらい美しいラストだったと思う。大くんも荒木さんも良い演技をする人たちだなあ。

 

 単純な謎解きなんかじゃない、と思いつつも、「アメリカ」のお話についてはこれからも考えたいことが山ほどあるから、またいつかなにか書くかもしれません。いま一番考えたいのは森くんの存在です。彼の考えていることを知りたくて仕方がありません。とにもかくにも「アメリカ」、みんな見てくれの気持ちです。余談ですが、過去にジャニーズ主演で舞台の戯曲をドラマ化してた「演技者。」っていうシリーズでもこの「アメリカ」をやっていたそうで、今のジャニーズと今の演劇界がコラボして同じようなプロジェクトをやったらめちゃくちゃ面白そうだから何とかしてやってくれないかな~~。

 

 

 

 

 

 

 

花は咲くか?/Dステ「淋しいマグネット」Reds

www.youtube.com

 

 スコットランドの気鋭の劇作家ダクラス・マックスウェルによる珠玉の名作を、日本初上演した。 物語の舞台を日本に置き換え、全役ダブルキャスト、4バージョンで上演。 惹かれあい、傷つけあう4人の若者達の20年間を痛烈に描いた青春群像劇。

 

 

 最近はD-BOYSチャンネルやDVDなどでD-BOYSの舞台ばかり見ている気がします。タイトルからして好きそう! と思ったこの「淋しいマグネット」、大好きでした。

 

 色んなことを考えるけれど、とりあえずざっとした感想を。リューベンが初めて語って聞かせた『空の庭』では、最後に種が残る。その種が芽を出すのか否か、それはわからない。「淋しいマグネット」のラストシーンはこの『空の庭』をなぞったもので、あの後彼らの「種」が芽を出すかどうか、それは私にはわからない。そういう話だった。めちゃくちゃ余談になるけれど、この「種が芽を出すかわからない」というので、映画『青い春』の「先生、咲かない花もあるんじゃないですか?」という台詞を思い出した。ラストの彼らの涙を見ていたら、芽は出るもの、花は咲くもの、って信じたくなってくるけれど、彼らにとって芽が出ること、花が咲くこと、ってなんなんだろう。

 

 結末だけじゃなくて、このお話全体として「わからないこと」ばかりで、いろいろ考えてこうかな、って思うことはあるけれど、確実に「こうだ」と言い切るには不確かすぎる。それは、お話の核になっているリューベンの存在について、私たち観客に与えられる情報が少なすぎるからだと思う。リューベンは19歳で、(おそらく)自死する。しかも、私たちがこの目と耳でリューベンの存在を確認できるのは、9歳で他の3人に出会った時、そして19歳で意を決したように崖の上に立っている時だけ。後はすべて他の3人が語るリューベンの情報しか知り得ない。だからわからない。彼らの語るリューベンの姿は、どれも食い違っている。それは彼らがそれぞれ見て聞いて感じたそれぞれのリューベンだから、そのうちの全てが正しくて正しくないのだと思う。「事実」というのは人の数だけあって、それを正しいとか正しくないとか判断するのはナンセンスなんじゃないかなあ、というのを改めて感じた。だけど、彼らにとっての「事実」は何だったのか? っていうところにはきっとものすごく意味があって、私はそれをできるかぎり読み解いていきたいなと思って、鑑賞後に気づいたことをメモしていたらかなりの量になってしまった。また考えがまとまったらエントリを書けたらいいんだけど、いつになるかはわかりません。Blues見てからかも。

 

 キャラクターとしてはやっぱりトオルを愛しく思う。トオル自身がどう思ってたかはわからないけれど、彼のゴンゾへの執着は愛というか彼のことを好きだったんだろうなと思う。ああいう男が好きで好きでたまらないし、荒木さんのビジュアルも演技もすごく好きだからトオルを偏愛しています。19歳のビジュアル、狂おしいほど好き。

 

 作品としてすごく好きなので、どこかで再演してくれることを望むばかりです。誰にやってほしいかな。

 

 

お皿を割ってしまうなら、割れないお皿を買えばいい/映画『未成年だけどコドモじゃない』

misekodo.jp

 

 

何不自由なく育てられたお嬢様・折山香琳(平祐奈)が16歳の誕生日に両親からプレゼントされたのは“結婚”!しかも、親の決めた結婚相手は、香琳の初恋の相手で学校イチのイケメン・鶴木尚(中島健人)だった!幸せな結婚生活を夢見る香琳…しかし、現実は甘くない!結婚した途端に、学校では決して見せない冷たい表情で尚が言い放った言葉。「お前みたいな女、大っ嫌いなんだよな」この結婚は尚にとって、折山家の経済力を目的とした“愛のない”結婚だったのだ。しかも結婚していることは、学校では2人だけの秘密にしなければならない。“結婚したのに片想い”な香琳だが、尚への一途な想いと持ち前の天真爛漫な性格で、尚に好きになってもらえるよう慣れない家事や勉強にも果敢に挑戦していく。 そんなある日、絶対秘密の結婚が、香琳の幼馴染で同じ高校に通う超お金持ち・海老名五十鈴(知念侑李)に知られてしまう。香琳に想いを寄せている五十鈴は、尚に香琳と離婚するように迫る。果たして尚と香琳の結婚生活はどうなってしまうのか!?

 

感想

 

 最近D-BOYSのニコニコチャンネルで色々見ていまして、2、3作品ほど感想がたまっているんですけど、まずは早めにあげた方がよさそうなこちらから書きたいと思います。映画『未成年だけどコドモじゃない』、本当によかったので見てください(公開からかなり経ってるから役者のファンは既に見てるだろうけど)。

 

 正直、宣伝の感じからトンチキ映画を予想して観に行きました。役者を綺麗に撮ってくれて、それでちょっと笑えればいいかなぐらいの期待値だった。でも全然違くて、真面目~~~~~にいい映画だった。真面目な話、『みせコド』は、全てを肯定する香琳によって、尚先輩の呪いが解かれる……という、魂の救済の話だったんですよ。これは本当に宣伝詐欺って言っていいと思う。だってこれ、香琳が主人公だと思わせておいて、本当の主人公は尚先輩の方じゃないですか。

 

 尚先輩は、1000万の借金を残して消えた父親似の顔のせいで、母親から存在を否定され続けて育ってきました。それにより、彼自身も自分の存在を否定的にしか見れなくなっています。母親からかけられた、そして自分でかけた呪い。香琳が言っていたように、彼はなんでもできる人です。だけどその「なんでもできる」っていうのが、もし何とかして母親に認められたいって気持ちからきた努力の結果だとしたら、ものすごく痛ましい。香琳と結婚するのだって1000万の借金を肩代わりしてもらう+折山グループの跡取りになるためで、これも母親のためじゃないかと思うとなんだかなあと思う。しかも、尚先輩は否定され続けた大嫌いな自分の顔を利用してるんですよね。

 

 一方、香琳はひとりじゃ「なんにもできない」子でした。朝の支度も寝てる間に終わってる(あれ本当にうらやましい)。でも、香琳は両親や周囲の人々から存在を祝福され続けてきました。そんな香琳は、何に対しても肯定的な見方しかしません。というか、できません。それ以外知らないからです。彼女の存在こそがこの『みせコド』を特別なものにしている要因だと思います。『みせコド』の設定って少女漫画の王道が満載なんですけど(高校生で秘密の結婚、共同生活、最悪な第一印象、ヒロインを一途に想う幼馴染、元カノからのゆさぶり……とか)、香琳の存在が無二すぎてそれら全部が意味をなさなくなってるんです。たとえば、元カノから「あいつは借金を抱えてる、金目当てだ、顔につられただけならやめといた方がいい」って忠告されたら普通一回悩んでから乗り越えていくし、上手くいってない時に自分を一図に想ってくれてる幼馴染からプロポーズされたらちょっと迷いが出てなんなら一回付き合ってみるってなるところじゃないですか。でも、そこで「尚先輩のところにはお金が足りなくて、私のところにはお金が余ってるんだから、お金があるところからないところに移動させたらいいんじゃない?」「金目当てと顔目当て、ちょうどいい!」って言葉が自然と出てくるのが香琳*1。プロポーズに返事すらしないのが香琳。彼女は最後まで自分の感情に迷いがないっていうのに、宣伝ではまるで先輩と幼馴染の間で揺れるわがままな女みたいな印象にされてたのが本当に許せない。香琳をナメないでもらいたい。香琳の考え方全体的にすごく好きなんだけど、「割れないお皿を買えばいい」っていうのが特に好き。お皿がこの映画ポイントポイントで出てくる気がするんだけど(香琳が癇癪起こして割る、元カノが落とす、尚先輩の母親が割る)、お皿=人間関係の暗喩なんじゃないかな。普通、落としたり叩きつけたりしたら割れてしまうものだって諦めちゃうけど、香琳はそこを「割れない皿を買う」って方法で回避しちゃう。コロンブスの卵みたいなものじゃないですか?

 

 お気づきかと思いますけど、私はめちゃくちゃ香琳のことが好きです。とはいえ、最初の方は香琳のことを好きになれるかすごく不安でした。共同生活を始めた当初の彼女の行動にイラッとして、なんなんだ? と思ったし、最後までこの感じだとキツイな~~と思ってたけど、香琳はただ「知らない」だけなんだな、って気づいて仕方ないか……って許す気持ちになれて。元カノに持論展開して「バカなの?」って絶句されてるときには思わず笑ってしまったし、あ、これだんだん香琳のこと好きになってるな、って気づいて、よくよく考えたらこの香琳への感情の移り変わりが、尚先輩と合致してるんですよ。尚先輩が主人公だ! って初めに書いたけど、これって私が尚先輩と同じ視点で香琳を好きになっていってるからそう感じたんじゃないかな。二度目の結婚式で、尚先輩が香琳を「最高の女性」って表現するのも完全に同意だし。最後の方の香琳のビジュアルとか完全に聖母だったし。香琳の本質って最初から変わってないし、実は彼女自身が何か特別なことをしてるわけでもないんですよね*2。ずっと素直な気持ちを貫いているだけ。だけどそんな香琳が、尚先輩の気持ちをやさしくさせて、結果的に呪いから解いてしまった。香琳が壁をこえて尚先輩の方に飛び込んでいく姿が、その時香琳側から注がれる光が、二人の関係性を的確に表していて綺麗でした。

 

 リンリンのことも色々考えるけど、あれは元から覚悟を試すために言ったんですよね。リンリンは香琳が何を選択するかなんてわかりきってたし、そういう香琳を好きだった。わかった上で発破をかけつつ、香琳が自分に靡いてくれたら……って万が一の期待も見せてるのがちょっとかわいかった。リンリンの家ってどう見ても極道だし、彼もまあ色々過去にあるんじゃないかな~~。リンリンも過去に香琳に救われているのかもしれません。余談だけど鏑木とリンリンが仲良いのかわいい。

 

細かい部分では、

  • シルビアさんの歌が聴ける
  • 「テスト」「テスト?」「テスト」「テスト」「…テイラースウィフト」「友達だよ?」「すごいね…」のくだり
  • 香琳の「尚先輩のうそつき」って台詞は、鐘を鳴らした時の「一緒にいれたらいいな」だけじゃなくて「電気が止められた」ってことにもかかってる

のが良かったな〜と思います。

 

 なんかもうしっちゃかめっちゃかですけど、とにかく私が『みせコド』をめっちゃ楽しんで見たんだぞ! ということを上演中に残しておきたかった。尚先輩と香琳の関係性を踏まえて主題歌の「僕らはきっとただ幸せになるため生まれてきた」っていうのを聴くとだいぶグッとくる。尚先輩の魂が救済されて本当に良かったです。まだ見てない人は見たほうがいいと思う。上演ももう残り少ないけど……。

 

 

*1:最後まで香琳がこの「金/顔目当て」っていうのを一切否定しなかったのが本当に良かったです

*2:もちろん生活能力が身についたりはしたけど

君にパトラッシュは救えるか?/柿喰う客「フランダースの負け犬」

 

https://youtu.be/gk5MH3h3krA

 

「君にパトラッシュは救えるか?」
中屋敷法仁が19歳の時に執筆した戯曲。
第一次世界大戦を背景に若き将校達の生き様を描く。

 

 現在無料公開中の柿喰う客「パトラッシュの負け犬」を見ました。これは本当〜〜〜に色んな人に見ていただきたいです。もう私の感想を読む前に見てください。90分くらいで見れるので。

 

 (追記:以下、引用はすべて http://kaki-kuu-kyaku.com/pdf/pdf_makeinu.pdf からです)

(2/22追記:なぜか途中から消えていたので復旧して上げなおしました)

感想

ヒュンケルとバラック

 この作品でメインとして描かれるのはミヒャエル・ヒュンケルクリスチャン・バラックのふたり。士官学校を卒業したヒュンケルは、入隊後も軒並み優秀な成績を叩き出し、上官からも目をかけられる優等生。そんな彼は、恋にうつつをぬかし、ろくに訓練にも出ず、『フランダースの犬』を読んで泣く同室のバラックに辟易していました。

 

 しかし、軍のお偉いさんの遠い親戚であるバラックのことを無下にできない上官・クルックとベームから、彼を立派な軍人にするよう要請され、出世のため、嫌々ながらバラックを鍛え始めます。バラックが優秀なヒュンケルに懐いて「友達」だと言うたび、天才とバカは対等じゃない、対等じゃなければ友達にはなれない、俺とお前は上官と部下だ、と否定するヒュンケル。ある日、バラックがヒュンケルの失態を庇ったことでふたりの関係性が変化します。代わりに殴られて、「これがバカの使い道だよ」と笑うバラック。“軟弱なバカ”だと見下していたバラックのことを、対等な存在として見直し、友人関係を築き始めます。

 

 そしてとうとう第三部隊の司令官を任されたヒュンケルは、上官に頼み込んでバラックを自分の部隊の配属にしてもらいます。やっぱり君はすごいね、僕みたいなのはきっと待機だよ、と落ち込むバラックに、お前は俺の部隊所属だ、ここ最近のお前の頑張りをクルック将軍も認めてくれたんだろう、と嘘をつくヒュンケル。嘘ではあるけれど、バラックの努力を誰よりも認めていたんですよね。そして結成式の日。司令官として、『フランダースの犬』を例にとった訓示をおこないます――「私がネロだったら、間違いなくパトラッシュを殺す」

 

 戦地にて、バラックとヒュンケルはある約束をします。その約束とは、バラックが怪我をして血が足りなくなったら、ヒュンケルから血をもらうこと。

 

 

バラック:いいから聞いてくれ。血がたくさん出て、血が足りなくなったらさ、僕に血くれないか?

ヒュンケル:…。

バラック:僕、君の血がいい。君の血を分けてくれよ。僕に、血をくれよ。

ヒュンケル:うん。なんていうか…血液型違うだろ?

(中略)

バラック:いいんだよ。君の血なら。

ヒュンケル:…お前になら、喜んでくれてやるよ。好きなだけもっていけ。

 

 「血液型が違っても君の血がいいんだ」「お前になら喜んでくれてやる」。血液型が違うヒュンケルの血を輸血すれば、最悪バラックは死んでしまうわけですが、それでもヒュンケルの血がいいのだと。このやりとりは、「友達だろ」という直接的な言葉――ヒュンケルの口癖ですが――よりももっと強烈に、彼らの絆を示しています。

 

 戦況が変化し、「負け犬」となった第1軍の将軍・クルックは、自分たちの保身のために、バラックにすべての責任を擦り付けようと考えます。そこで、バラックを殺すようヒュンケルに要請する。覚悟を決めたヒュンケルが「俺のかわりに死ねよ」と銃口を突きつけると、バラックは命乞いをすることなくそれでいいんだ、それがバカの使い道なんだ、撃って君は生きろ、と受け入れる。もちろん、ヒュンケルは撃てません。

 

ヒュンケル:いいから、命乞いしろよっ。お前のこと、死んで欲しくないって思ってるやつ、いるんだぞ。そいつの為に、命乞いしろよ。死にたくないって言えよ。

バラック:…(クビを振る)

ヒュンケル:…できない。できない。できない。できない…。

バラック:バカ野郎。引き金を引くんだ。ドイツを最強の国家にするんだろ。その為に、手段なんか選んじゃいけないんだろ。君は将軍じゃないか。将軍が、そんな弱気でどうするんだよ。

ヒュンケル:将軍だと。…お前みたいなバカ一人の命も助けられないで、何が将軍だ。何が国家だっ…。

 

 元々、ヒュンケルは国家のために闘い、出世欲の塊で、バラックを叱ってばかりいました。それがここでは国家や自分の役職のことよりもバラックというひとりの友人を守る方が大きくなっている。バラックに叱られている。完全に彼のあり方が逆転しています。

 

 ヒュンケルはバラックを助けたいし、バラックはヒュンケルに生きてほしいし、お互いがお互いを想いすぎて延々平行線なわけですが、その間にバラックは出血多量で命を落とし、ヒュンケルはベームに殺されます。彼らの、お互いを助けたいという願いは叶えられなかったのです。そして、『フランダースの犬』のラストシーンのように寄り添う二人の遺体は――ト書きにはこう記されています――「ヒュンケルの身体が、バラックから引き離される」。ショックでした。

 

 他人のことを想いすぎて、結局は自分の命すら落としてしまったヒュンケルとバラックは、たとえばクルック将軍やベームから見れば、「負け犬」なのかもしれません。だけど、人間としての心を忘れて、他人を踏みつけて、そうやって生き残ることと一体どちらが幸福なんでしょう。わからないけれど、おそらくヒュンケルにとってはバラックを殺さないという選択が最善だったのだと信じたいです。

 

君にパトラッシュは救えるか?

 作中何度も繰り返される『フランダースの犬』のラストシーン。眠ってしまったパトラッシュに、ネロが声をかけるシーン。バラックが愛するこの物語を、ヒュンケルは否定し続けていました。ヒュンケルにとっては、国のため闘う軍人にあるまじき“軟弱さ”の象徴だったからです。

 バラックはヒュンケルに鍛えられたことで「もう必要ない」と自身の“軟弱さ”と決別します。そしてヒュンケルは、結成式の訓示では「私だったら、間違いなくパトラッシュを殺す」とまで言い放ちます。けれど、ヒュンケルにはパトラッシュ=バラックを殺すことが出来ませんでした。彼らは、ネロとパトラッシュそのままの末路を辿ります。

 

 ここからは、クルックからヒュンケルへの「君にパトラッシュが殺せるか?」、そして作品紹介の「君にパトラッシュは救えるか?」という問いかけを見て、考えたことを書いてみたいなと思います。

 

 まず、「パトラッシュ」が象徴するものは何か。これはクレーゼルが言う通り、「友達」のことでしょう。ただし、ネロにとっては大切な友達のパトラッシュも、他の人から見ればただの犬でしかない(ここを巡ってクレーゼルとヒュンケルの間に亀裂が入りました)。序盤のヒュンケルはバラックの名前を覚えません。バラックの強烈なキャラクターは認識しているのに、名前だけは覚えていない。この時点ではヒュンケルにとってのバラックはただのバカ=犬であり、それが名前を覚えることでバラックとなり、最終的には友達になったのかなあと考えています。名前とは呪術的なものですね。

 

 

 さて、「パトラッシュを殺せる/殺せない」「パトラッシュを救おうとする/救わない」で登場人物を分類すると、以下のようになります。

 

 

  • パトラッシュを殺せる者:ベルニウス、クルック、ベーム、ヘンチュ、(ビューロウ)
  • パトラッシュを殺せない者:ヒュンケル、クレーゼルバラック
  • パトラッシュを救おうとする者:ヒュンケル、クレーゼル、ビューロウ、バラック
  • パトラッシュを救わない者:ベルニウス、クルック、ベーム、ヘンチュ

 

 忘れてはならないのが、全員がパトラッシュを救えないということです。

 

 この中で特異なのはビューロウ。彼だけ、「パトラッシュ」を救いたがっているけれど、殺すこともできる人間のように見えました。

 

ビューロウとクルックについて

 

 クルック率いる第1軍を見捨てて撤退命令を出すようヘンチュに要請された時、ビューロウは躊躇います。「既に第1軍を助けられる可能性がない」と、頭のいい彼にはよくわかっているにもかかわらず、です。

 

ヘンチュ:僕らだけで、帰りましょう。ビューロウ、私をベルリンに連れて帰って。

ビューロウ:いえ…私は…。

ヘンチュ:ナニ? クルックを助けに行きたいの? もう無駄だってわかってるのに?

ビューロウ:…。

ヘンチュ:あなたを置いてっちゃった男よ。仕返しよ。こっちも置いていっちゃえ。

ビューロウ:…。

ヘンチュ:…判断が遅いぞカール・ビューロウ。イギリス遠征部隊が動いたら、壊滅的な打撃を受けるのは明白。迅速かつ的確な判断を。

ビューロウ:…撤退。

 

 ヘンチュに「クルックを助けに行きたいの?」と問われてビューロウは沈黙しています。軍人としての「迅速かつ的確な判断」は「撤退」。それは分かりきっているのに沈黙している。クルックのことを、ビューロウ個人の感情としては助けに行きたい。でも、ビューロウは軍人で、しかも第2軍の将軍という立場です。国家と部下のことを考えなければならない軍人としては、「撤退」しなければならない。最終的には、ヘンチュから「軍人」として扱われることで、「軍人」としての判断――「撤退」を選んでいます。

 

 クルックとビューロウは、犬猿の仲のように描かれています。なぜビューロウはクルックのことを助けに行きたかったのでしょう。色々な場面から、彼らの関係性を考えてみたいな……と思います。まず、クルックとビューロウがお互いについて言及している場面を抜粋します。

 

 

 ①クルックとビューロウの初登場シーン

 

クルック:頭が固い男は嫌われるぞ。

ビューロウ:頭の柔らかいお前の方が、俺は嫌いだがな。 

クルック:もうたくさんだ。ヒュンケル君…また後でな。

 

ビューロウ:クルックには気をつけろ。あいつが考えていることは自分の出世のことだけだ。うかうかしていれば、いいように利用されて、やがて捨てられる。

ヒュンケル:…。

ビューロウ:カール・ビューロウだ。困ったことがあったら、いつでも俺のところに来い。

 

②ヒュンケルがバラックの教育を要請されるシーン

 

ビューロウ:何をしている。

クルック:ビューロウ。

ビューロウ:何をしているんだ。

クルック:頼むよ。私につきまとわないでくれ。

ビューロウ:つきまとわれているのはこいつの方だ。

 

 

シュリーフェンプラン遂行の命を受けるシーン

 

ビューロウ:…正直、今回の作戦、どう思う? シュリーフェンプラン

クルック:完璧だ。

(中略)

ビューロウ:そうだろうか…。俺は不安だ。

(中略)

クルック:…君が何を思っていようが、作戦は遂行する。 全力を尽くしたまえ。

ビューロウ:偉そうな事を。俺はお前の部下じゃない。

クルック:ビューロウ。私は第一軍の司令官。君は第二軍の司令官。私のケツを追いかけるだけだ。実質的に、私は西部戦線最高司令官なんだよ。

 

ヒュンケル:しかしあなたには残念ながら、野心あふれる男の魅力が、まるでない。

ビューロウ:…アイツのことは任せた。無事を祈る。

 

 

④軍議のシーン

 

クルック:勝てばいいんだビューロウ。これは戦争だ。勝者だけが正義だ。

ヘンチュ:勇ましいですね、クルック。お手並み拝見。

クルック:はっ。

ビューロウ:…作戦にはもちろん従う。だが、クルック。ひとつだけ約束してくれ。俺の部隊から離れるな。

クルック:なんだ、ひとりぼっちが淋しいのか。

ビューロウ:ひとりぼっちになるのはお前だ。最前線のお前は、俺から少しでも離れたら孤立するんだぞ。

クルック:…うんざりだ。

ビューロウ:クルックっ。

 

 

 ⑤クルックの兵舎にて

 

 ベーム:このままの調子で行けば…クルック将軍の参謀本部入りは間違い無しですな。

クルック:まだだ。まだ手柄が足りない。リエージュの攻防戦では、ビューロウに先を越されてしまった。

 

クルック:…ヒュンケル、あまり失望させないでくれ。どうして僕が、あの男から離れられたかわかるか。

ヒュンケル:え?

 

 

 ⑥ビューロウの兵舎にて(前述)

 

ヘンチュ:僕らだけで、帰りましょう。ビューロウ、私をベルリンに連れて帰って。

ビューロウ:いえ…私は…。

ヘンチュ:ナニ? ルックを助けに行きたいの? もう無駄だってわかってるのに?

ビューロウ:…。

ヘンチュ:あなたを置いてっちゃった男よ。仕返しよ。こっちも置いていっちゃえ。

ビューロウ:…。

ヘンチュ:…判断が遅いぞカール・ビューロウ。イギリス遠征部隊が動いたら、壊滅的な打撃を受けるのは明白。迅速かつ的確な判断を。

ビューロウ:…撤退。

 

 

  特に重要と思われる箇所には下線を引きました。さらにそれを、下記のように種類によって色分けしています。

 

  • 赤色:クルック→ビューロウ、苛立ち
  • 黄色:ビューロウ→クルック、警戒
  • 青色:ビューロウ→クルック、不安
  • 緑色:ビューロウ→クルック、心配

 

 ここから、

 

  1. ビューロウは、出世のためなら手段を選ばないクルックの本性をよく知っている。ゆえに警戒している。自分ならそれを感知し、解決できると考えている。
  2. ビューロウはクルックに、作戦に対する不安を吐露している。警戒しているはずの相手を、どこか信頼をしているようにも見える。
  3. ビューロウには、クルックを出し抜こうという気持ちはない。むしろ心配している。クルックがどんな行動をとるのか何となくわかるがゆえに、その危うさを案じている。
  4. ビューロウは、クルックを警戒しているが、それ以上に心配する気持ちの方が強い。クルックにヒュンケルが利用されることを警戒しているが、ヒュンケルがクルックの下につくと決めた際には「アイツ(=クルック)のことは任せた」と頼んでいる。
  5. クルックは、心配ゆえに自分にまとわりついてくるビューロウのことを鬱陶しく思っている。ビューロウから離れたがっている。心配される=見下されている気持ちになる?
  6. クルックは、ビューロウを出し抜きたい。シュリーフェンプランへの見解など、ビューロウの方がクルックよりも優れているような描写があるため、どこかにビューロウへのコンプレックスがあるのか。

 

 ということが見えてきます。ビューロウもクルックも、互いのことを「嫌いだ」と言います。しかし、そうは言うものの、ビューロウはクルックのことを心配し、自分の本音を打ち明けている様子が見られます。クルックは劇中、つねにヒールとして描かれています。そんなクルックのことを、なぜこんなにも心配するのでしょう。私は、「ビューロウはクルックのことを嫌いになることが出来ないのではないか」と考えています。

 

 彼らの過去について、玉置さんが「付き合ってたのかな?」と仰っているのがとても好きなのですが(確かにビューロウが別れたのにやたら干渉してくる元カレっぽいな……)、それはさておき、過去において、二人は親しい関係にあったのではないでしょうか。で、それがどんな関係性だったのか? を考えたとき、ベルニウスとヒュンケルの関係性だったんじゃないかな、と。

 

 ベルニウスとヒュンケルは同じ士官学校出身の“親友”。ヒュンケルと、共に軍で成りがっていこう!と約束を交わしていた男です。言葉の節々から、出世への意欲も滲み出ていました。ベルニウスはおそらく作中で最も「友達」という言葉を発していた人間ですが、最後にはヒュンケルやバラックを見捨て、彼らを助けようとしたクレーゼルを殺して生還し、笑顔で「ヒュンケル? …そんな男は知りません」と言います。この時の笑顔がめちゃくちゃ怖いんですよね。彼は今後、笑顔でたくさんの嘘をつきつづけるのでしょう。だけど彼がヒュンケルやクレーゼルバラックに関してはわからないけれど)に対して抱いていた友情が嘘だったとは思いません。彼も戦場で狂ってしまった人間のひとりなんだと思います。

 

 クルックが、過去にベルニウスと同じようなことを――自分が生き残るために「パトラッシュ」を殺し、そこから狂ってしまったんだとしたら、それを隣で見ていたビューロウは彼のことをただの悪として切り捨てられないだろうし、その危うさを心配してしまうんじゃないかな、と思います。作戦が失敗したとき、梯子にしなだれかかっているクルックがものすごく美しいのですが、あれも彼の危うさからくる美しさじゃないかな。

 

 と、いうことを色々考えてはいるのですが、何分正解がないですし、だいぶ長くなってしまったのでこのあたりで一旦終わらせたいと思います。フラ犬未見の人がここまで読んでいるとは到底思えませんが、未見の方、なにとぞよろしくお願いします。

 

 

 

 

OFFICE SHIKA REBORN パレード旅団を観ました

 

12月24日(日)13:00@ABCホール

 

shika564.com

 

この戯曲は二つの世界を移動する。

ひとつはいじめにさらされている、中学生の世界。

もうひとつは、崩壊にさらされている、ある家族の世界。

全国から集まった「いじめられっ子」たちには、夢があった。

何不自由の無い「普通の家族」は、ばらばらに抱えた孤独があった。

世界を変えるために少年は言う。

「復讐、しませんか?」

世界を変えるために父は言う。

「今日かぎり、父さんは父さんをやめようと思う。」

ふたつの旅が、始まる。

 

 

 OFFICE SHIKA REBORN、パレード旅団を観に行ってきました。過去の名作戯曲を上演するプロジェクトの第一弾、ということで、これからも続いていくようです。「パレード旅団」は私が生まれるもっと以前に書かれているので、当然観たことのない戯曲ですが、テニミュに出演されていた佐藤祐吾くんもいるし、ヤング券でお安く観れるし、題材も面白そうかな~~というわけでチケットを取りました。これだけは言わせてもらっていいですか? 鹿殺し……チケット購入がめっちゃ楽!!! わざわざコンビニ行く手間もいらないし、発券忘れもなくなるし。楽に買えるのは良いことです。プレイガイドが間に入ってる公演の方が多いし、この形が一気に普及するのは難しいかな~~とは思いますが。

 

 さて、「二つの世界を移動する」とあるように、この作品は「いじめられっ子たち」の話と「家族」の話を移動しながら進行していきます。それまで「父親」を演じていた役者が、激しい嵐の音がした後は「いじめられっ子」を演じている。次の暗転ではまた「父親」に戻っている……そんな風にぱたぱたと世界が切り替わる。どんどんその切り替わりの頻度が高くなっていき、全く別の状況にある二つの世界がラストにはリンクしあう、というつくりは面白かった。

 

 内容については、違和感や疑問を抱く部分もあった。「家族」の方は、形骸化してしまった家族が、一度自分たちの役割を交換し、自分たちが演じてきた役割について見つめ直すことで、最終的には「家族」を再構築して……みたいなことになると思う。その肝心な「家族」や「役割」の像が、現代のリアルとはズレて感じた。作中で描かれるのは祖父・祖母・父・母・息子・娘・ペットという所謂サザエさん世帯。父は外で仕事をして皆を支え、母は家で料理を作って皆を待つ。娘が男と出歩いたり、煙草を吸ったりすると世間から白い眼で見られる。そういうの古くない?ってなってしまった。もしかしたら根っこの部分は今も変わらないのかもしれないけれど。

 

 「いじめられっ子」の世界は、とにかく宮内くんに対してイライラしてしまった。私自身いじめられた経験がないからかもしれないけど、毒殺を実行してしまう独りよがりさが、全然わからなくて。「やらなきゃこっちがやられる」っていう切実さはわかるんだけど。大森さんと北村くんの言う「自分よりも劣っている人がいる学校へいけばいじめられない」もあまりにも利己的だし、松本くんの言う「いじめられっ子だけを集めた学校をつくれば、皆いじめられる痛みを知ってるから誰もいじめられない」はあまりに夢物語すぎる。皆を集めた坂口くんは本当にただ同じようにいじめられてる子たちと集まって遊びたかっただけなのに、殺人事件に巻き込まれてしまって災難だな、って割とずっと思ってしまってた。皆このままでいいなんて思っているわけがないけど、じゃあどうすればいいんだ? 大人は戦えっていうけど、じゃあ具体的にはどうすればいいんだ? って考えた結果なんだろうけど……なんだかなあ、学校以外にコミュニティを持つのが一番いい方法なんじゃないかな、みたいなことを考えていて、ああこれは「いじめられっ子たち」に無責任な解決法を提示していた家庭教師の女と一緒だなと気が付いた。でも、だからって宮内くんに対する気持ちは変わったわけではなくて、何なんだよお前、って思ってる。もやっと。

 

 最後彼らは疑似家族を形成して、それが「家族」の話の役割とぴったり同じになる。私は個人的に疑似家族というものに全く惹かれなくって、というか「家族=美しいもの」、みたいな、そういう幻想に不信感をどうしても抱いてしまう人間だから、「ああそういう風に落とすんだ」って、それ以上でも以下でもない感想を持った。でも、家族の中の自分の役割に縛られてそれを演じるようになっていた「家族」と、それぞれの性質から役割分担して疑似家族を形成した「いじめられっ子」、という対比は面白かった。

 

 余談ですが、松浦さんのヘッドスピンと橘さんのフライングと最初の曲(「メロンのうた」)のナンバガオマージュ*1にはめちゃくちゃウケた。橘さんは役柄上もあるけど客席に一番ウケてたと思う。好き。あと橘さん以外全員セーラー服を着て歌って踊る「スカートめくりのうた」、祐吾くんと松浦さんのかわいさは「かわいい~~」って見てられたけど、蕨野さんのセーラー服姿は「きれいなお姉さま」って感じで、背徳感というか見ていてドキドキ感がすごかったです。おきれいです。

 

 なんだろう、構造的に面白いなと思う作品だったけど、自分とは背景にあるものが違いすぎてしこりが残る作品でした。とはいえOFFICE SHIKA REBORN自体にはめちゃくちゃ興味があるので、次があればまた観に行きたいなあと思います。チケット購入も楽だからね!!!(強調)

 

 

 

 

 

*1:途中完全に「鉄風 鋭くなって」だった